やればできる

「おれはやればできる人間なんだ」という根拠のない万能感を捨てた後に残るのは大抵「おれはやれないしできない」という概ね正しい自己認識だろうけれど、「おれは何も成せない」「おれは何者にもなれない」「おれの人生は何かの物語ではない」なんて冷たい現実を直視しながら生きることなんて雪の降りつもる氷点下の夜にろくに服も着ないまま倒れるまで裸足で歩き続けるのと大して変わらない気がしていて、何故ってどっちも終わったあと何も得られないただの苦行だからだ。

 正しい自己認識だとか冷たい現実というものは、別にぼくたちを幸福にしてくれるために存在しているのではない。寒いなら服を着込んだ方が幸せになれるし、素足で歩くくらいなら靴を履いた方がいくらか前向きな気持ちになれる。内面まで正しく生きることなんて真面目な人の自己満足にしか過ぎないのだし、正しくあることで自己満足できないなら、いくらでも堕落して甘く楽しく生きるべきだと思う……みたいなことを言うと「やったのでできた」人が眉をひそめそうだけど、天上人にどう思われるのか気にしたって仕方ないしそれはそれでいいとして、しかしここでひとつの別の問題が発生するのだ。

 直接顔を合わせることのないインターネットならともかく、実社会実生活で上記のようなことを言うと周りの人間が突然内面まで正しく生きているやったのでできた系人間にジョブチェンジするのである。おそらくは妬みからだ。ぼくも奴隷労働の同僚が同じようなことを主張し出したら「まあわからないでもないけど他人の同意を得られるとは限らないね?」的なことは言うかもしれない。だってただの開き直りだから!お前だけ勝手に開き直って楽になりやがって!ぼくはこんなにも辛く悲しく冷たい現実を何の役にも立たない正しい自己認識を抱えながら苦行めいて必死に生き抜いているというのに!お前だけ一抜けすることなんて許さないぞ!みんなで一緒に苦しみながら地獄まで歩くんだ。落ちるのではなく自分の意志(のようなもの)で歩いていくのがミソ。この行程そのものが生き地獄。……でも地獄へ向かうゾンビの群れの中で、ぼくはひとりこう思う。「おれはこいつらとは違うな」って。「どこかへ羽ばたいてゆける翼を持った人間だな」って。「いつかその日がやってるに違いない」ってね。まだ具体的なことは言えないけど、そんな確信があるんだ。とても強い確信が。今はまだ雌伏の時だけど、遠からず何かを成し遂げることができるさ。だってぼくは昔から、本気を出してやればできる奴なんだからね。