料理

 

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 マストドンなんか目じゃないくらい限界に近いインターネット集落reddit日本語圏の限界コミュニティlowlevelaware(以下LLL)では限界な人々が細々と暮らしていて、ここ数日ぼくはLLLに夕食の画像をアップロードし続けている。

 おおむね以下のようなものだ。

 

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 ド不評である。

 いやぼくだって電子レンジ調理器具でチンして安ごまだれをかけた安パスタと形容できるこの料理(?)に被写体としての需要があるとはまったく思っていないけれど、飯テロだ何だともてはやされる事を期待してカロリーも材料費も高そうな料理(!)を見せびらかしているような連中よりもぼくの方がよっぽどテロリストだし、そういう気持ちを失った瞬間、いたずら心の満ち満ちる少年は醒めた目をしたつまらない大人に“成長”してしまい二度とあの頃には戻れないのだと思う。

 LLLの大人たちはぼくに「まずそう」「死ぬぞ」「ワンちゃんの餌かな」「アイボやルンバと同じレベルの食習慣」などと冷たい言葉を投げつけてくる。ぼくは生活にメリハリをつけるために何かしらの新しい習慣をつくりたかっただけなのだけれど、いやマジ話ワハハこいつ飯への意識ひっくいなーという種類の小さな笑顔をいただきつつ飯をいただくつもりだったんだけど、どうも粗食というのは笑いのネタにし辛いようだ。ぼくは前職の先輩にお別れ飲み会の場で「○○君はまぁはっきり言って常識がないよね」と半笑いで言われるような人間なのでわからなかった。常識的には料理はきちんとやるべきなのだろう。常識を養いたい。

 

 何故食事はそこまで大事なのか? 訓練も兼ねて拙いながらも常識で考えてみようと思う。常識的に考えて、ものを食べない人間はいない。人間は何かを食べ続けて生きている。食べることをやめてしまうと死んでしまう。

 だから、食べることを考えることは生きることを考えることで、生きることを考えることは死ぬことを考えるのとおおよそ同じだ。考えなければならない。身体を壊してしまった人はそうでない人よりも早めに死ぬらしい。身体を壊すのは概ね悪い生活習慣とのことである。この悪い生活習慣なるやつがすべての元凶である。死にたくなければ悪い生活習慣を殺さねばならない。ぼくと悪い生活習慣、生き残るのはどちらか一方だけだ。自分の命に拘泥する限り、誰かの命を奪うしかない……

 良い生活習慣と共存している人々だってそれは同じだ。彼らの足元には様々な栄養素がバランス良く含まれた死骸が折り重なって山になっている。健康的であろうとすればするほど山は高く高くその頂を伸ばし、いつか天にまで届いたとき神の雷が落ちるのであろう。それに引き換えぼくはどうだ? 必要な死体は悪い生活習慣のたったひとつだけ。ずっと簡単なことじゃないか。やつさえ殺せばぼくは自由だ。

 けれども、ふと考える。

 人生というのは、誰かを殺してまで長らえさせるに値するようなものなのか?

 仮にそれだけの価値があるならば、かくの如き大切な人生を悪い生活習慣から奪ってしまうだなんて許されることなのだろうか?

 悪い生活習慣だって生まれてきたからには家族がいるだろう。友達だっているかもしれない。やつが死んで悲しむ誰かがいるかもしれないというのに! 正しいことをしていると胸を張って言えるか? ぼくには無理だ。

 共存の道は……ひとつだけある。粗食が――つまりは悪い生活習慣が、ぼくにもたらすであろうものを、やつの個性として受け入れることだ。そもそも生きている限りどうやったって死ぬのだ。早いか遅いかの違いでしかない。大切なのは『どう生きるか?』これはお前の人生だ。そして一分ごとに死に近づいている。人生をビタミンたっぷりの緑黄色野菜に捧げるのか? それとも良質な動物性タンパク質に? ミネラルを豊富に含んだ玄米を白米に混ぜて土鍋で炊くつもりなのか? 『成人男性に必要な一日の栄養』とにらめっこしながら健康的で美味しい献立を組んでいる間にも人生は過ぎていく。もう戻らない。二度と。そして悪い生活習慣はいつでもぼくたちの隣にいて、握手を待っている。

 

 結論、死を恐れなければ永遠に安パスタだけ食べ続けても良いということになってしまいそうだけれども、実はまったくそうでもなくて、「身体を壊してしまう」と「死ぬ」の間には「身体を壊してしまったので生活のクオリティが著しく下がる」「生活のクオリティを回復させるためにお金が必要になる」という段階が隠れているのだ。これが非常に厄介で、身体というものは壊しても案外すぐには死なないのである。お金ばっかりがかかる。困る。この国ではちょっと前まで毎年三万人が自殺していたし死ぬばっかりで産むやつがいないので人間が減って自殺者も減って二万人になった。自殺というのは生きることが嫌になってするものだ。毎年二万人もの人々が死を恐れない境地に至っているとは考えにくいが、事実として二万人死んでいる。死への恐れを生きる苦痛が上回ったということなのだろう。生きることは時として死ぬことよりも辛い。毎年二万人が死を選ぶほどに辛い。辛いのは嫌だ。生活の辛さはクオリティの低さから発生する。お金の無さも最終的には生活のクオリティの低さと合流する。生活のクオリティの低さを殺さねばならない。ぼくと生活のクオリティの低さ、生き残るのはどちらか一方だけだ。自分の命に拘泥する限り、誰かの命を奪うしかない……

 生活のクオリティの高さと共存している人々だってそれは同じだ。彼らの足元には“自分らしく”生きるために消費される資源の死骸が折り重なって山になっている。人生を充実させようとすればするほど山は高く高くその頂を伸ばし、いつか天にまで届いたとき神の雷が落ちるのであろう。それに引き換えぼくはどうだ? 必要な死体は生活のクオリティの低さのたったひとつだけ。ずっと簡単なことじゃないか。やつさえ殺せばぼくは自由だ。

 けれども、ふと考える。

 人生というのは、誰かを殺してまで充実させるに値するようなものなのか?

 仮にそれだけの価値があるならば、かくの如き大切な人生を生活のクオリティの低さから奪ってしまうだなんて許されることなのだろうか?

 生活のクオリティの低さだって生まれてきたからには家族がいるだろう。友達だっているかもしれない。やつが死んで悲しむ誰かがいるかもしれないというのに! 正しいことをしていると胸を張って言えるか? ぼくには無理だ。

 ここで悪い生活習慣が再登場する。「すべきことをする」どこか達観した口調でそう吐き捨てた悪い生活習慣は、ぼくと生活のクオリティの低さの間に割って入ると、気だるげに下げたスーパのビニール袋の中から、ありふれた包丁を取り出した。探せばどこにでも売っていて、けれども人を殺すに余りある凶器だ。

「動くなよ」

 悪い生活習慣がそう呟いたのと、抜き身の包丁がひらめいたのは殆ど同時のことで、だからぼくが止めろと叫んだときには既に、刃の根元までが生活のクオリティの低さの左胸に深々と突き刺さっていた。

 生活のクオリティの低さは呆けたような顔で胸から生えている包丁を見やり、視線を包丁の柄から、突然やってきて自分を刺した狂人の腕、そして瞳にまで順に移すと、唇の端を震わせながら口を開く。

 ごぼっ。

 何か言おうとしたのだろう。しかし声の代わりに溢れたのは泡の混ざった真っ赤な血液だった。包丁が引き抜かれた瞬間、生活のクオリティの低さは膝から崩れ落ち、そして立ち上がることは二度となかった。

 汚れた路地裏のアスファルトに血だまりが広がっていく。

 ほんの十数メートル先の、表通りの喧騒があまりにも遠い。

 西日がビルの隙間から入り込むと、薄暗い路地裏に一筋の陽が差した。光芒は生活のクオリティの低さだったものの上にも降りそそぐ。ヤコブの梯子だ、とぼくは思う。昇天する魂を探して視線を彷徨わせる。目に入るのは汚らしいビルの外壁。錆びだらけの非常階段。切り取られたちっぽけな夕焼け空。ちっぽけな空に浮かぶのは形の悪い雲だけだ。

 そうとも、ぼくは空を見上げた。死体を直視することができなかったからだ。そして悪い生活習慣は地に伏す死体をじっと見下ろしている。さして興味もなさそうな瞳で。

 ぞんざいに足を踏み出した悪い生活習慣は、履き古しのスニーカーで血だまりに踏み入って、靴底を真っ赤な色に染めた。

 そのまま死体を跨ぐと、路地裏の奥へゆっくり歩いていく。真っ赤な靴底は真っ赤な足跡を残す。真っ赤な足跡が真っ赤な夕日に照らされる。

 小さくなっていく背中に、ぼくは訊ねる。

「どういうつもりなんだ」

「見ればわかるだろう」

 くるりと振り返り、べっとりと血に塗れた包丁・・を指先でなぞりながら、悪い生活習慣は答えた。

「料理してやったのさ」