成長であるとか改善であるとか進歩であるとか

 失敗や後悔をいくら重ねても悩みと呼ぶ程に膨らまないのは自分の能力が他人と比べて著しく低いところで頭打ちになっていることを誰よりも良く知っているし、見てきたし、体験してきたからで、きっと目線のちょっと先に便器があることに引っかかりながらバスタブの中で身体を洗う貧乏人と似ている。だってユニットバスってそういうものだからね。文句はあるし変えられるなら変えたいけど、いま住んでいるのはそういう空間だからね。北海道だったら三万で借りられたぞこんな部屋。

 

『そういうもの』なのはどうやっても『そういうもの』なのだと思う。数分前までカラっと晴れていたのに突然の通り雨で全身びしょ濡れになったとする。とても嫌な気分になるだろうけれど、「もうちょっと手加減してくれないかな」とか「せめて事前に来ることを教えてくれませんか」なんで雨雲に語りかけたところで、通り雨というのは手加減も事前の連絡もしてくれない、『そういうもの』であるからまったくの無意味でしょう。同じじゃないだろうか。ユニットバスは使いにくい。通り雨は突然やってくる。太陽が沈むと夜になる。物は放り投げると地面に落ちる。ぼくの能力は他人よりも低いところで頭打ちになっている。何も変わりはない。『そういうもの』だ。深刻に悩めない。

 

 諦めたり受け入れたりした訳ではなくて、失敗への後悔と一緒に「そうだったな」という気持ちが湧いてくる。そうそうオレってこうだよね。という再確認。成長であるとか改善であるとか進歩であるとか、つまりは伸びしろというものを自分に見出すことはちょっと出来ない。正確に言えばリアリティを感じない。何をどう伸ばせは太陽は沈まなくなるんだよ。想像できるか? ぼくには出来ないよ。

 夜を昼に近づけるための努力ならあるだろう。照明を買う、懐中電灯を持ち歩く。そこら中に街燈を立てる。通り雨に濡れたくないから傘を持てばいいし、全身を使って放り投げた物は高く高く飛んで長く空に留まるだろう。ユニットバスを使いやすくする方法はちょっと思いつかないけれども。*1

 

 もちろん能力を誤魔化すための努力もある。ぼくだって努力している。成果と呼べるものだって得た。自分という生き物をどうにかして解釈して、足りない部分は騙しだましでどうしかやってきた。だから足りない部分が多すぎることを知っているし、騙すにしたって表面だけ雑に取り繕うことしか出来ないのを知っているし、騙しだまし以外に人間みたいな生活を送る手段がないのも知っている。ずっとそうやってきた。そうする以外になかった。誰よりも知っている。

 

 それで話が終わりだったらまぁ薄暗い停滞があるだけなんだけどさ、ぼくもこう、ハード面から脳がどんどん駄目になり始めるくらいの年齢にいよいよ差し掛かってるわけじゃないか。低能だ低能だ喚いてたのが実は自分のピークで、能力が入っている器そのものがゆっくりと衰えていくわけだ。きっとそれはもう始まっているんだろう。

 これはどうなんだろうね。抗うための努力をするべきなんだろうか? DHAか? 魚の目玉とか食べたり? みんな魚の目玉食べてる?

 するべきなんだろうな。健康に気を遣ってさ。魚とか野菜とか発酵食品とか、あと適度な運動と休養とかさ。脳がぶっ壊れちゃったら中身とか関係なく人生が完全に駄目になってしまうし。脳だけじゃなくて内臓も骨も筋肉も何もかも維持しないと駄目だよね。生きることができなくなってしまう。できるだけ長く生きたい。

 でもいつか、そこまでしても駄目になる日が絶対来るわけで、いつかのその日にぼくはどう対応するんだろう。自殺とかしたり? みんな自殺する?

 するべきなんだろうか? 脳も身体も駄目になってしまったら死ぬべきなんだろうか? 有能なら他人に聞かれたときの答えくらいは持っているのかな? ぼくは低能だ。低能なのでなにもわからない。

 なにもどうにもならない。

 これからどうすることもできない。

 魚の目玉食べる?

 

 

 
おわり

 

*1:真剣にアイディア募集中