日本には死季がある

今週のお題「紅葉」

 

 肌寒い日々が続いている。これからドドドドドドドドドと雪崩のように気温が下がり本格的な冬となるようだ。ある者は凍死し、ある者は風邪を拗らせ死に、またある者は滑って転んで死ぬだろう。『クソ寒い時期』と『クソ暑い時期』と『移行期間』があるのみの現代日本において四季は存在しないが死季は間違いなく存在し、もちろん生き物は寒さでも暑さでもそれ以外でも死ぬので一年中が死季である。一年中が死季であるからには世界に一年中死が満ち満ちている筈で、なるほど外を歩いてみれば道の縁石沿いには街路樹の赤い葉がじっとり湿り誰に顧みられることなく吹き溜まっている。あれは紅葉の死骸で違いないだろう。紅葉狩りの季節とは紅葉が狩られ殺される季節のことである。手を下すのは人間であったり人間以外であったりする。今回に関して言えば下手人は雨の冷たさだったが、この寒さが殺すのは今この瞬間目に見ているものだけでもない筈で、例えばふたつ前の季節にあれほど対決を繰り返したゴキブリの長い不在は不在そのものが連中の死を物語っている。陸橋の下に長らく放置され部品のガチガチに錆びた自転車が示すのは移動能力の死で、僕の横を通り抜けるスーツの後ろ姿は(おそらくは)今日ぶんの労働の死、ビルの窓から漏れる明かりは定時帰宅の死だ。スーパーの弁当に貼られた値引きシールは定価の死であり、店内にかかるローカルラジオは静寂の死であり、帰り道に響く足音もやはり静寂の死で、どこか遠くから聞こえる車の走行音も当然静寂の死だ。生きることは死の死だから、冷たい新鮮な空気を肺に取り入れることはもちろん酸欠の死である。頭の中に浮かんだ思いつきを言葉にして見える場所に残すのは墓石を彫るのと似たようなことで、何故って吐き出して満足してしまった思考はそこで終わってしまうので思いつきを書き記すことは思いつきを殺すことで間違いない。せめて立派な戒名をしたためてあげるべきだろう、と身体に熱を入れるためにプルタブを開ければそれは素面の僕の死で、アルコール切れと鈍い怠惰は酩酊した僕の死だ。目を覚ますのは昨日の死で瞼を落とすのは今日の死である。覚醒は今日の誕生と同じことかもしれないけれど、閉じた目が必ずしも開くとは限らないように死と生が表裏一体であるとはとてもとても言えず、地球があらゆる生でいっぱいいっぱいになっていないところを見れば生の数を死の数がいくらか上回っているようだ。繰り返すに我々の世界は死に満ち満ちている。

 

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これは249円の死。

おわり