「天気の子」ネタバレ感想:老い、あるいは2019年の映画を語るのにセカイ系だのキミとボクだの肥大した自意識だの言い出すの大丈夫なの?ってさぁ君が気付いて聞くからいや大丈夫な訳ねぇなこれって僕は

「『イリヤの空、UFOの夏*1』をセカイ系の文脈に引き付けることに違和感があって、というのも語り手の自意識の範囲を“セカイ”としてしまう稚気を揶揄的に呼んだのが当該ジャンルですが*2秋山瑞人ほど奥行きのある“世界”を(時に誤魔化しや仄めかしの手管を駆使しながら)鮮やかに賑やかに濃密に描き上げる作家を他に知らないし、またその筆力によってあたかも「浅羽直之と伊里野加奈」と「敵」の間に数多の中間項が横たわっているかのように見せかけることに成功している作品なので「みんな*3がぼんやり使ってるセカイ系の定義にすら当てはまる小説ではなくない?」って思うんですよね。これが『イリヤ』と同時期にセカイ系御三家とか呼ばれていた*4最終兵器彼女*5』くらいになると「あ~~~~キミとボクの自意識が世界の命運と直結~~~~」って納得出来てくるんですが、しかしヒロインの周囲にサブキャラクターとして配置された自衛官あるいは敵兵の視点を通して戦争の深刻化を描いてはいたし、サブキャラクターの物語にページを割いて主人公の周辺も描こうとはしていたのでパンツは脱いでいないように思います。

 じゃあ最もセカイ系セカイ系してたセカイ系、上から下まで全裸になってキミとボク以外を全力でぶっちぎっていた作品は何だったかと考えたときぼくの観測範囲では断然『ほしのこえ*6』だったなあとしみじみ思いだしたのが天気の子の感想でありました。」

 

 

 

 上記は当初感想の掴み部分にしようと思っていた文章だけど2019年にセカイ系の話をしなくてはいけないことに気が付いて止めた(でもせっかく書いたのに消すのも勿体ないので残した)

 

 そもそもセカイ系って何だよ。主人公(とヒロイン)の内面世界の葛藤が外的世界の命運にシームレスで影響する話?でいいの?

 自信ない。「エヴァっぽい」って意味で使ってるひともいるし……っていうかサイカノってこの理解で合ってるのか? あとゼロ年代エロゲほぼ触れたことない。わかんない話をするのは危ういじゃん。

 なるべくわかる部分の話をしたいと思う。

 

目次

 

わかったこと

 天気の子において一番「わかる~」と共感したのは帆高くんの社会の舐め腐り方で、雑に家を出て雑な大人に雑に拾われて雑な仕事を貰うなんてのはとにかく現環境がストレスだけど逃げ延びた先でどうやって生活していくのか具体的に想像することのできない人間の妄想そのままだ。思春期に閉塞を感じたタイプの若者が全員やるやつ(いや僕だけかもしれんけど)(僕のはライ麦畑じゃなくてファイトクラブだった)

 ティーンのころの自分が観たら「ライターの真似事するところまで含めて俺の妄想通りじゃん!」って驚いたあと妄想を実現(?)しているアニメのキャラを本気で羨み妬み自分の周りの現実の優しくなさに涙を流したんだろうけれども今の僕はそれから感性の繊細さが経年劣化したので「思春期に閉塞を感じたタイプの若者の誰もが通る妄想のような導入部だなあ」と感情を処理して綺麗でテンポの良いアニメーションが目の前を他人事のように流れていった。帆高に共感する若者が成長したところで須賀氏のような「帆高に共感する若者」が求める“大人”に意識がスライドしていくわけではなくかつて帆高に共感した若くはない者になるのだよなあ。*7

 

 

ファイト・クラブ (吹替版)

ファイト・クラブ (吹替版)

 

  陰の者が観て損することはない映画。まだ観ていない陰のあなたにも。

 

ややわかったこと

 足と特殊技能をつかう労働に対する対価のガバガバ感覚*8であるとか、マクドナルドを首になったので風俗に沈もうとする急ハンドルにムズムズするべきではなくて、何故ってこれは自活するための金銭感覚を肌で知らなかったり福祉を利用する選択肢の重要さに気づけないひとたちが主人公の話なのだから描写としてはむしろ正しい。

 正直なところを言えば帆高や陽菜の置かれている状況を若者の貧困と関連付けて語る言説にはあまり頷けない。逃避行ラブホ逃避行からの「大丈夫」を成立させるための別ルート潰しみたいなもののように思う。監督がプロットの都合で若者を貧困状態に陥らせているだけなのでは。選択肢が限定される要素として貧困ほど身も蓋もないものは他にないし。

 別ルート潰しであり同時に若者の貧困の反映である――のかもしれないが、住所無し未成年の貧困と親無し家庭の貧困はそれぞれ問題が別なんだから混ぜるのは(もしテーマのひとつに『若者の貧困を描く』あったのであれば)創作の手つきとしてちょっと雑だし、帆高にしろ陽菜にしろ「福祉の手の届かないひと」「福祉にアクセスする手段を知らないひと」じゃなくて「積極的に福祉に背を向けているひと」として描かれている。いや貧すれば鈍するのはそうだけれど……

 終盤にエモボーイのエモにあてられて自分もエモくなってしまうことを運命付けられたフィクショナルな“大人”の記号の塊たる須田氏の会社に転がり込み、拘束時間ゆるゆるの仕事と住処を手に入れて明らかに後で拾う銃をビルの片隅に配置しておくための、そして児童相談所も警察も拒絶し逃避行に走るための、『原作ならここでセックス』のイデアみたいなイベントを経て激エモ脱走に繋げるための、つまりは話を転がしやすくするための貧困だと解釈するのがスマートのように思う。

 ついでに確認したいんだけど陽菜の家で出たジャンク飯は“正しい食事”の知識の欠落を暗に示してるってことで良いの?

 いや別に飯なんてあんなんでいいじゃん?ダメ?ダメか了解。

 

 新海誠監督の作品は「ほしのこえ」しか観たことがない。*9だから氏の作風の変遷は全然わからない。

 そんな訳でそもそも「天気の子」を俯瞰して語る資格すら本来はないのかもしれないけれど、それでも「別に児相は何も悪くないだろ」とか「実銃なの勘付いてる癖にいつまでも持ち歩くな」とか「アトムみてーな頭してる警官」とか突っ込みを入れたところで作中で描こうと試みられた部分とズレてるのはギリギリわかる。

 天気の子はたぶん、セカイ系っぽい青春譚なのだと思う。自信ないけれど。

 

セカイ系の先、か?

  鑑賞を終えた直後に「ゼロ年代ノリのアニメがティーン向け映画みたいな顔してスクリーン占領してる状況が笑えてしまう」という趣旨の感想をツイートしたのだか、よく考えてみれば自意識とセカイの物語から(ある種の)リアリティを感じ取っていたのはゼロ年代のエモエモ青年なのだから、同じものが現代のエモエモ青年に向け描かれたとして笑うようなところはなんら存在しないのだ。自分の視野の狭さを猛省している。

 天気の子は、かつてセカイ系とされた作品群の再演であり、だからそこに描かれているものは『セカイ系』の枠からははみ出さない。

 

 東京が水没した結果の被害を具体的に描写していないのは既にさんざん指摘されていることではあるけれど、これは「ほしのこえ」において宇宙人の詳細も国連の在り方も女子中学生がエイリアン討伐に駆り出される経緯も説明されなかったこととまったく同根なのだろう。つまるところ優先順位が高いものを描くためのノイズになるから意図的に省いているのであって、取捨選択の手つきは2002年と特に変化はないように思う。

 皆さんご存じの通りある部分では狂っていてある部分ではそうでもないスペクトラムが世界と呼ばれるものなので「世界なんて元々狂っている」というのは端的に視野狭窄であり日本の人口的経済的政治的中心地が派手に水没しても意外に続く日常を描いたところでキミとボクの閉じた自意識のセカイを描くジャンルからの逸脱になるとは思わない。むしろそのジャンルの想像力に問題なく内包される発想だろう。(日本の人口的経済的政治的中心地が派手に水没したら日常はあんまり続かないと思われるので)(「自意識と直結した世界」という虚構の前提から連想した「自意識と関係なく強固な世界」という虚構じゃん)(結局セカイ系の話になってしまった)

 水没したの〇〇区(←きみが考える水没しても社会への影響が作中描写程度に収まるであろうエリアの名前を入れよう!)だけだったらいくらか説得力あったのにな。

 

老い

 もちろん実世界に思考の焦点を置かないのは何ら悪いことではない。

 ただそうなると“共通の話題”がなくなってしまう。人間は社会や世界に対して何だかんだ大なり小なり問題意識を持っている(場合が多い)ので、社会や世界に問題を提起すればある程度自分に関係のある事として受け取って貰える。社会問題を扱った映画は永遠に無くならないだろう。

 明記しないと絶対誤解されるので明確に書き記すと社会問題を扱えとか実世界に寄り添えと言っているんじゃないくて、アニメーションが綺麗だとか、キャラが可愛いだとか、RADWIMPSのファンだとか、帆高の自意識ポエムがエモいだとか、ボーイミーツガールが好きだとか、小栗旬だとか本田翼だとかの何かが刺されば刺さった分だけ好きになれるんだけど、オタクもサブカルも自認できずエモい青春譚をエモい青春譚として素直に受け取るには心が老いてしまった僕にはNot for meなのだった。

 

 ここで言う老いたとか若いとか若くないに実年齢は関係がない。いちいち僕が言わなくても世界中ひとりひとりが自分で勝手に気付いているだろうが、そもそもこの世に大人など存在せずただ実生活に精神リソースを向けた結果の「若くはない」状態があるだけだ。*10

 天気の子は『「若くはない」ではない』ひとに刺さるようにつくられている、『「若くはない」ではない』キャラがたくさん出てくる映画で、とっくに『「若くはない」ではない』ではなくなってしまった僕は繰り広げられる青春譚のエモさにノることが出来ず、空のどこかに溶けていった陽菜の孤独にも「トリッシュの腕のキズはオレのキズだ!」とは叫べなかったのであった。ボートに乗れないフーゴの気持ちを何となく理解してしまう。魂の老いである。

 老いてしまった。

 

キミとボクあるいは彼と彼女

  初見の際は「セカイ系であったなあ」とぼんやり思ったわけだが、感想を書くために深く考えれば考えるほど、陽菜が何のために祈っていたのかも、帆高が何故「僕たちは大丈夫だ」と思ったのかも、ぜんぜんまったくこれっぽっちもわかっていない自分に気が付いた。

 水没した東京に祈っただとか、自分のために祈ろうとしただとか、そんな陽菜を見たから大丈夫だと確信したとか、インターネットの頭の良いひとたちが解釈しているのを読んで「ほーんなるほど」って思ってもそれは僕の内側から出てきた感想ではない。ほーんとか言ってる場合ではないんだよ。気にもしなかった自分を真剣に省みるべきだ。

 感性の繊細な人間に向けたであろう描写を悉くスルーしてしまった事実に恐怖を覚えるべきなのだ。

 でもノれなかったんだよな……

 支配者や神に限らず本当に他人なので他人顔をする場合もある。「キミとボク」ってキミにもボクにも入り込めないと「なんかそこにいる彼と彼女」になってしまうのか……

 いや彼と彼女が「大丈夫」なら、それは喜ばしいことだと思う。一般論として。

 

 でも一般論を描こうとした映画ではないんだよな明らかに。激エモクリエイターが示したビジョンを共有できなかったことにただただ落ち込む。

 そんなこんなでテンションが下がり、感想を書くのにもめちゃくちゃ時間がかかったのであった。

  だらだらしてる間に答え合わせみたいなインタビューが世に出てしまったよ。

 

 

movie.walkerplus.com

「僕自身は、美少女ゲーム的な文脈を作ろうとか、セカイ系をどうアップデートしようかなど、そういったことは考えていませんでした」

(中略)

「『セカイ系を作っている』という意識は、昔から特になかったんです。いま一番気になっているテーマや、みんなが共有していると思うような気持ちを描いたことが、結果的にそう言われている」

 やっぱナチュラルボーンエモーショナルディレクター新海誠は「ほしのこえ」から揺るがぬ自意識を持つ男なんじゃん。

 もっと早く投稿出来てれば格好ついたかもしれない。

 でも連日クソ熱いのに淡々と続く労働も悪いよ。気温が三十五度に到達したところで東京は崩壊しないが僕は崩壊するので大丈夫ではなくなる。

 僕の大丈夫になってくれ、具体的にはしばらく働かなくても食いつなげるくらいのお金を口座に振り込んでくれ、とか言い出したら人間は終わりで、僕は終わりです。

 

 

結局、

 結局セカイ系ってなんだったんだ。

 そう言えばストーンオーシャンセカイ系の文脈で語られることが稀にある。ただキミとボク云々よりは、個人が世界をどうにかしてしまったという点と、スケールのデカさのキリスト教めいたフレーバーを指して「エヴァっぽいよね」って言われるんだろう。あんまり真に受ける必要はないと思う。まあラストシーンの静謐さはEOEに通ずるものがあるけれど。

 やっぱ全部エヴァに戻ってくるのだろうか。奔りがエヴァならわかりやすくアンチセカイ系やってるのもヱヴァで、「Q」においてシンジくんがウワーッてなって謎SFアイテム/現象を使用して心の健康と世界を中間項スキップで解決しようとし結果ボコボコに否定されたのは、TVシリーズ最終二話とEOEの雨後に生えてきた筍を責任感を持って刈り取ろうとしたのだろうというのが僕の解釈だが、ただボコボコに否定することだけに終始したのは穏やかじゃないし、提示されるべき否定の先にあるものを来年の六月まで教えてもらえないので一本の映画としての評価に困ってしまう。

 より穏やかな手つきでセカイ系的な自意識をメタ的に捉えていたのは『君と僕の壊れた世界』で、これは新本格ミステリ(虚構のテーゼに虚構のアンサーを出すことを繰り返した蛸壺のこと)作家としての西尾維新の最高傑作であり青春イヤミスの金字塔だ。この守るべき小さな世界で起きた事件の謎を解いても何の解決にもならない物語の初出が2003年だから『Q』の約十年前の時点で既にアンチセカイ系的な発想は存在したということになる。

 同時代のサブカルチャーに強烈な影響を与えた西尾維新がやったことをエロゲライターが誰ひとり一切パクってないということはないだろうし、僕が不勉強なだけで『君と僕の~』から伸びた枝葉のような作風を持つエロゲなりギャルゲが存在することも充分に考えられる。

 あるいは「天気の子」的な「セカイ系を終わらせた!」と鼻息荒く評されがちな作品もあったのかもしれないが、新本格ミステリのファン以外新本格ミステリを読まなくなったのと同じような現象でゼロ年代サブカルの片隅の外には届かなかったのかもしれない。いや妄想だけれども。

 

 

きみとぼくの壊れた世界 (講談社ノベルス)

きみとぼくの壊れた世界 (講談社ノベルス)

 

 シリーズ化しなければ文句のつけようがない大傑作だった。 

 

労を倒し、老に抗う

 

 僕だって平成産まれのエモボーイで在り続けたいが労働がその邪魔をする。つまり悪いのも敵なのも全部労働だ。全部が全部働かないと生きていけない世界が悪いのだ。

  ゼロ年代の先のテン年代で最も大切な学びは十年区切りで時代を語ろうとすることの馬鹿らしさよりも原発事故の意外な程の忘れやすさよりも、元号が変わるよりずっっっっっっっっと前から我々を雁字搦めにしてゆっくり殺そうとしてきた全国民労働前提社会の破綻が近づいているということ、そして誰かの働き方が改革されたしわ寄せは別の誰かに行くのだからそもそも「働くこと」自体に問題があるということの二点だった。ならばこそ、セカイ系の先の時代を提示するべきシン・エヴァはヴィレの旧ネルフ面子がゲンドウにネルフ勤務時代の残業代を請求する物語であるべきだし、裁判所の介入で無事ゲンドウを倒したヴィレに予告無しで労基の調査が入り安全措置の多大な不備を理由に即日停止命令を出される物語であるべきだ。

 奇しくも盆である。彼岸に逝ってしまったエモエモボーイとしての魂を呼び起こすには労と縁を断ち切らなくてはいけない。

 愛にできることはもうあまりないが何もない僕たちでも労働打倒の夢を見ることはできる!盆休みなどあってないようなものなので決断のスピードが大事!!!!

 よっっっっっしっっっっっっ!!!!!!!

 このまま!!!!!!

 仕事を!!!!!!!!

 辞!!!!!!!!

 めっっっっっっ!!!!!!!!

 っっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ

 ………………

 ……………………………………

 …………………………………………………

 辞めたところで家賃払わなきゃいけないのは変わんないし…………

 ……………

 ……

 …

 

 

 

 

 

 

おわり

*1:秋山瑞人によるSFライトノベル、戦う女の子が酷い目に遭う

*2:ホントか?

*3:誰?

*4:誰によって?

*5:高橋しんによる漫画、戦う女の子が酷い目に遭う

*6:新海誠による短編アニメ映画、戦う女の子が酷い目に遭う

*7:当たり前だ

*8:これは地方/東京は関係ないよね

*9:でも途中で前作レジェンドライダーのサプライズオリキャス出演があったのは何となくわかった

*10:ホントか?と思う人は胸に手を当てて自己を「若くはない」ではなく大人と言えるか考えてみよう(言えるならごめんなさいをするしかない)