断酒100日目 感謝

 原因が肉体的なものなのか精神的なものなのかは分からないんですが、座り込んでまったく立てなくなってしまったことがつい先日ありました。(こういうのあんまりブログとかで書くものでもないと思ったので触れはしなかったんですけど)

 ああなってしまうと重力が二十倍くらいになって胴体をまともに動かすことができませんから、ギリギリ手の届く範囲に置いてあったスマホを触るのが実現可能な範囲で最大限文化的な行いです。でも体調が悪いときに見るインターネット程かったるものはないし、ゆったり漫画読むような気分でもないし、イヤホン持ってきてないから音楽も聴けない。

 という訳で他にやれることもないから、なんとなーく自分のブログを読み返してみたり、ついでにアクセス解析を確認してみたりするんですよね。何だかんだで三カ月以上毎日更新しています。最初は読んでくれる方の九割九分がTwitterredditの内輪でしたけど、続けていく内にはてな内からアクセスしてくれる方や検索エンジンから覗いてくれる方も増えてきて、たまーにスターついたりコメントついたりするんです。

 はてなブログの断酒グループで唯一漫画とかソシャゲの話ばかりしているクソブログです。でも毎日書いていれば暇つぶしに読んでくれる人がいるらしい。顔も知らない人たちに読んでもらうための日記をずっと書いている、って冷静になって考えると不思議なことをしているなぁって気持ちになります。

 直接応援の言葉を貰っている訳ではないにせよ、弱っているときに見るアクセスやコメントのひとつひとつは孤独を忘れさせてくれます。頑張れ、気合絞り出せ、踏ん張れ……そう応援してくれるように思えてくるんです。

 そうだ。踏ん張らなきゃ……と身体にグッと力を入れた瞬間パンッ!と破裂音が肛門から響き、まろびでた腸液と液状うんこの混合物が水面に垂直落下して、ぽちゃんと小さく鳴りました。書き忘れてましたがその時ぼくが座り込んでいたのは便器です。次いで出てくるのは墨汁のように真っ黒でさらさらとした液便。腸内に溜まっていたガスと一緒に絞り出します。下半身の筋肉全体に力を込め、ブログを読んでくれている皆さんと気持ちをひとつにしながら腹の中にあるものを下へ下へと押し出していくイメージです。そうすると背筋に走る悪寒と共にズン…!ズン…!と“何か”がやってくるのが感覚で伝わってくるんです。

 肉体的な苦しさはここがピークだったと記憶しています。

 奇妙な感覚ですが……括約筋のふちに硬いものが引っかかっているのが分かる。けれど矛盾なんですが、そのブツは「とげとげしている」のと同時に「柔軟な感触」も持っているんです。つまりベースは柔らかくて緩い――経験則的にオレンジ系の色味が強い――けれど、内部に硬い部分が複数混ざっている、そのようなうんこがいま僕の肉体の内側を傷つけながら、大腸のどこかに詰まっている。

 理解さえしてしまえば後はもう踏ん張るだけです。

 腹筋に力を込めて「フッ……!」と息を腹の底に押し込む。確実に“出口”に近づいている感覚。もう一度息を吐き出す……けれど足りない。エネルギーが。腹筋で力むのなんか実質的に筋トレと同じです。考えなしに連発できるようなものではない。

 そう、普通ならば。

 ぼくはスマートフォンでブログを見る。

 目に入るのは明らかに自ブログに誘導する目的でスターをつけてきた今時アフィリエイトで稼ごうとしているよりにもよってビールアイコンのはてな民……!今時アフィリエイトで稼ごうとしているビールアイコンの……!ビールアイコンのはてな民……ネタではなくこいつは実在するはてな民……!

 瞬間。

 腸液、腸内ガス、そしてうんこの同時発射。

 空の果てまで届きそうなその放糞音は、甲高く響くラッパを思わせるものでありました。

 

第三の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が、空から落ちてきた。そしてそれは、川の三分の一とその水源との上に落ちた。

この星の名は「苦よもぎ」と言い、水の三分の一が「苦よもぎ」のように苦くなった。水が苦くなったので、そのために多くの人が死んだ。

 

ヨハネの黙示録 8:10-11

 

「苦よもぎ」が指すのはうんこではないと誰が言い切れるのでしょうか?黙示録に描かれる終末とは尻によって塞がれた洋式便器内部のヴィジョンを幻視したものでないと、地にぶちまけられる神の怒りとは便器にぶちまけられるうんこではないと、何処の誰が断言できる?少なくともそのとき確実に、便器の中のブツの飛び散り具合は間違えなくカタストロフィでした。

 そして――世界の終焉が新たな世界の入り口であるのと同じように、排便の終わりは人生の新たな始まりです。

 何故って?

 排便は多くの場合座って行うもので、人生とは歩んでいくものです。

 座ったままでは歩けません。

 ぼくは緩やかに息をひとつ吐くと、トイレットペーパーで尻を拭き、ズボンを上げ――立ち上がりました。

 

 

また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、

人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。

 

ヨハネの黙示録21:3-4

 

 

 これから僕の人生がどこまで続いていくのか、それはまだ誰にも分かりません。

 けれどひとつだけ言えるのは、座ったままでは、どこにも行けないってこと。

  あのビールアイコンはそれを僕に教えてくれたのかもしれませんね。

 神に感謝を。

 

 

 

 

 

 

 

 

おわり