日記:三月十五日 面白さのなんと脆弱なことか

 それが面白いとかつまらないとかは結局のところ感覚的な領域に行きつくしかない話で、格好いいとかダサいとかもやっぱり感覚的な領域の話だから、ダサさは感覚の領域を経由して「これ面白いな~」って気持ちを侵略してしまう。その速度たるや火の如し。ダサくなってしまったら単純に面白いままではもういられない。一度棄損された「これ面白いな~」の回復は本当に難しいことだ。

 まあ世に溢れる物事は面白さなんぞよりも有用さを志向しているのでダサいからって何というコトではなく、例えば労働は食い扶持さえ稼げれば面白い必要はないし、学問なんかは面白いどころか実生活の役に立つ必要も別にない。大概の場合ダサくなさを求める方がむしろ間違っている。

 話が変わってくるのは小説とか漫画とかアニメとかゲームであるとか、なんでもいいがともかく面白く在ろうとしている――感覚的な領域に訴えることを目的としているコンテンツで、これは絶対にダサくなってしまってはいけない。何故って面白く在るために創作されたコンテンツが面白くないのは悪だからだ。そんなもの存在しない方がいいからだ。「面白ければ何であれ受け入れられる」は「面白くなければ何ひとつ受け入れられない」と同じ意味だ。

 それの特性上、構造上、ダサさが入り込んでしまうのは仕方がないと言うのであれば、面白い/面白くないを論ずる俎上に載る資格すらそもそも本来持っていなかったということだ。ただ面白くないだけよりも尚悪い。嘘を吐いていたのだから。汚らしい痰カスの方がまだ見るに堪えるようなしょうもなさを内面化しながら「わたしは格好よくて面白いコンテンツですよ」なんて顔をして受け手にすり寄るのは正しく厚顔無恥と呼ぶ他ないだろう。

 騙す方と騙される方なら悪いのは常に騙す方であろうし、騙された方は、まあ、今後は注意を払うべきなのだろうと思う。繰り返すにコンテンツが面白くないのは悪だ。ダサい振る舞いをしているコンテンツは面白くない。

 何もかも感覚の話で、だからこそ面白さとは脆弱なのだなぁとしみじみ感じ入るばかりである。

 

 

 

おわり