日記:七月二十二日 魔法少女山田(2)を観た もはや現代ホラーって怖い映像を撮る必要ないのかもしれない。


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 考察系ホラーが“ジャンプスケアがないから安心”みたいな褒められ方をされているのをよく見るが魔法少女山田は輪をかけて安心だ。ビックリ演出以前に何ひとつ怖くない……と言うよりも明らかに映像そのものを怖くしようという意思が感じられない。

 前回の在りそうな架空バラエティ番組に続いて今回は在りそうな架空ドキュメンタリーが放送時間の大半を占めている。そして作中作としての「魔法少女おじさん」は胃がきゅっとする場面はあるけれどそれだけだ。TXQ FICTIONシリーズの「イシナガキクエを探しています」や「飯沼一家に謝罪します」には不可解でオカルティックな要素も内包され底知れぬ恐怖を煽っていたが、今作にそんなものはない。“在りそうな”架空番組に不穏映像なんか混ざってる訳ないもんな。

 しかしホラーとして無風なのかと言えばまったくそんなことはなく、凄まじいことに観て怖がるためのコンテンツとしてきちんと機能しているのだ。というのもコメント欄やSNS上での感想を眺めてみよう。目ざとい視聴者が、不自然と言えないでもない小さな違和感を指摘して、「マスクのチークは殴られた痕」であるとか「編集で時系列が入れ替わっている」であるとか「人物が入れ替わっている」であるとか「三田監督は実は元々山田の生徒で復讐を目論んでいる」であるとかを独自に主張し、それを読んだ人々が独自に怖がる光景が広がっている。これってとんでもないことだ。

 深読みして勝手に怖がっているという言い方が悪いなら、考察が交わされるプロセスを通してホラーコンテンツとしての輪郭が半ば自動的に浮かび上がる、と表現してもいい。映像そのものにホラー要素は殆どなくて、怖がるのも怖がらせるのも受け手、というちょっと異様な状態になっているのだ。

 元々TXQ FICTIONは考察による盛り上がりが意識されていたシリーズであったから、作り手はこのような受容のされ方も予想していた筈だ。シリーズを重ねて育てた考察好きのファンに挑戦するようにただのバラエティやただのドキュメンタリーを投下して、それを無事怖がって貰えてる現状って、ホラーの作り手としては無敵ではないか。自分達が今からつくるものをどう怖くするか?を考える必要がない。むしろコントロールを試みては陳腐になってしまうかもしれないから、自然発生した「怖いもの」が共有され力をつけていく様子を受け手と共に見守るしかない。都市伝説が流布する過程を超ミニマムにするとこんな感じなのかも。

 もはや視聴者を怖がらせるために幽霊も怪物も必要なく、不安を煽るような映像すら必須ではない。どんなものを流しても勝手に裏を読んでくれて絶対に成功するのだから。

 いや次回の最終話で怒涛の伏線回収と劇的なホラー演出がされる可能性はあるけれども、少なくとも2話まではリアルタイムではこう受容されていた、と資料として書き残しておきたいと思う。

 現代ホラーってここまで来てるんだな。ハイコンテクストという意味で芸術的ですらある。

 

 

 

おわり