日記:十一月十日 おもくそネタバレ踏んだミステリ小説を読む回「向日葵の咲かない夏」編

 

 死んだクラスメイトがあるものに姿を変えて現れるミステリ小説。死の真相を追ったり追わなかったりする。

 

 別の小説の感想で今作の大ネタを引き合いに出す輩と遭遇しおもくそネタバレ踏んだので未読だった「向日葵の咲かない夏」を読んだ。

 面白かったというかノスタルジックな気持ちになった。暗くてモニョついた作風にそうだよこれこれゼロ年代の空気感、と頷く。初出は2005年だから20年前の小説になるのか。もっと早く読むべきだったと思う。というのも時代性の強い作風だからだ。

 

 以下の文章は個人的な史観であり正しさを主張するものではないのだが、90年代後半からゼロ年代にかけての本格ミステリでは後期クイーン問題というタームを扱うのが流行っていた。端的に説明すると「作中の探偵が辿り着いた結論が本当に正しいのかどうか作中の視点では証明できない」問題。

 誤魔化しはあれど嘘はない形で作中に描写された情報だけを使って論理的に解を導き出すのが本格推理小説の不文律だが、「真相に至るために必要な情報はこれとこれとこれで、他は必要ありません」と断言できるのは神様(=作者)だけで作中のキャラクターには不可能、という構造への指摘である。

 それが具体的にどう問題なのかはWikipediaでも読んでもらうとして、アプローチの類型のひとつに「推理」という行為の解体があった。今作もその文脈で書かれた小説のように思う。

 推理小説のような虚構性の高いジャンルにおいては読者が「推理」と読んでいるそれもまた作者の意図によって形作られた虚構で、それなのに別解可能性なんてものをイチイチ考慮しなきゃいけない。それって変だけど本格ミステリという物語の構造上そうなってしまうのだとすれば、構造を歪めてみれば考慮の必要もなくなるんじゃないか?という発想がそのままギミックになっている……ように読めた。

 そう考えると今作の大ネタは単に突飛なのではなくて、「推理」に対してどこか冷笑的な態度を感じる。当然鬱屈としていてクネクネしていてジメついていて、読んでも全くすっくりしない。こういうの好きだったな、と改めて思った。ジャンルのオタクってジャンルに対して自己言及的な作品が好きだよな。僕も好き。

 

 

 

おわり