映画「ゲット・アウト」感想(ネタバレなし)

 夜中に突然虚無虚無の虚無になったので映画を観た。

 

 

ゲット・アウト(吹替版)
 

 

 

 黒人男性が恋人の白人女性の実家に挨拶に行くんだけど、そいつ等や周囲がどうも妙な連中で……という話。

 

 面白かった。

 ジャンル的にはポリティカル・ホラーと言ったところだろうか。前半の見どころは「あっ、こういう会話あっちじゃ地雷原なんだな…」という緊張感を軸にした巧みな緩急の付け方で、アメリカの社会のこと何も知らんぼくですら胃が痛くなりそうで再生止めて近所の自販機まで逃げたりした。(虚無になっているときに観る映画ではないのでは)

 冗談じゃなく観客の胃を痛めつけるのがほんとうに上手い。何気ない会話と会話の間に漂う言外の感情やタテマエの居心地の悪さ、不可解な人物の不可解な言動や、そしてオブラートで包み込まれた差別意識。そういったものが積み重なって映画の中に奇妙な「場」が成立する。いやほんとこれがこえーのなんの。

 レイシストの集団に放り込まれた訳じゃないけれど……公民権運動以前の時代にタイムスリップしたような……と言えばちょっとは近いがどうもぼくが知っている“差別”とは何が食い違っているような……そんな精神のざわつく「場」を、観客は主人公を通して追体験することになる。

 いまいちピンとこないシーンもあったけれど、あれもきっと人種間の摩擦を体験している人ならあるあると膝を打つ「いつものやつ」なんだろう。後半に明かされる冗談めいた大ネタも、アメリカ――というか人種のるつぼを生きる当事者なら「黒幕」にある種の差し迫った共感すら持ちうるのかもしれない。

 そんなスリリングなプロットを展開させつつ、ポリティカルな毒々しさで描写の意味をさり気なくミスリードするクレバーさなんかも兼ね備えていたりする。冷静な視点でじっくり練られた映画だと感じた。何周かするのも面白いかもしれない。

 

 ちょろっと他の人の感想とかをググったりすると台詞の端々に何かしらの暗喩的な意味が込められているのではないかと考察されていて、その根拠はアメリカの歴史だったりスラングだったり使われなくなった言葉だったりするらしい。勉強が足りていれば今以上に楽しめたんだろうな。残念と言えば残念。

 ともあれ虚無虚無の虚無になってるときに観るべき映画じゃなかったのは確かだ。

 とてもつらい(虚無なので)。

 

 

 

 

 

おわり

 

 

 

『劇場版 仮面ライダービルド Be The One』感想 :おれはどんな顔をするのが正しかったのか

 

 

 

ネタバレ無しざっくり感想

・良い部分と悪い部分がいつものビルド。

・ジオウ本編の前振りっぽい要素があるので把握しておいた方が(たぶん)良い。

・ここまで追ってきた人間なら、まぁ、観て損はないのでは。お布施だお布施。

 

 本編でやってきたことの語り直し、再確認、新たな角度からの肉付けという色が強かった。だから本編を観てない人に独立した一本の映画としてお勧めできるかと言えば実のところそうでもない。描かれているものは「仮面ライダービルド」という作品のサイドストーリーとしては正しいしパワフルだ。ビルドってあんなんだし、おれはビルドが好きだから、この映画もまあ、好きだ。

 どんな顔で受け止めればいいのかは、ちょっと迷ったけれども。

 

 

 

 以下ネタバレ有り感想

 何故か『AtoZ/運命のガイアメモリ』の話もしている

(ところで現在youtubeで全平成ライダーの1~2話が無料配信されているのでW知らんという方は是非)

 

 

www.youtube.com

 

 

仮面ライダービルド」が示し続けてきたもの

 2018年8月8日午後、このタイミングを逃すとキツいという事情のもと大雨にビニール傘一本で立ち向かい、命からがらTOHOシネマズに辿り着いたおれを待っていたものは、

 著しく自我の弱いゾンビめいた大衆、いまいちキャラの弱いトンチキ宇宙一族、クソギャグ、クソギャグの中で輝きを放つ内海とヒゲ、人類理解の解像度でトンチキ一族に「わかってねぇなぁ~」圧をかます人類クソオタクエボルト(マジでいい加減にしろよお前)、そして圧倒的な戦兎×万丈要素だった。 

  ずぶ濡れになった戦兎が内面世界で葛城巧と対話し、自分にとって万丈がいかなる存在なのか語ったとき、おれは困惑していた。あまりにも描きたいものがはっきりし過ぎている。あの場の湿度を上げていたのは台風13号以外の何物かに違いなかった。

 ビルド殲滅計画はメタ的に言えば戦兎の逃げ場全潰し計画だった。市民に手荒な真似はできない玄徳と一海は早々に本筋から隔離され、洗脳に抵抗力を持たない美空と紗羽さんは敵に回りこれもまた本筋から隔離される。

 出来上がったのは囚われの万丈まで続く一本道の物語である。弱きりった顔のイケメンが水を滴らせながらイケメンの話をするシーンを観て、おれはどんな顔をするのが正しかったのか? おれはいったい何を観たのだろうか?

 

 今振り返っても映画の内容の大半はラビットドラゴンフォームの、より正確に言えばラビットドラゴン変身シークエンスから敵撃破後のピロートークまでの戦×万いちゃいちゃの前振りに過ぎなかった。

 作られた人格、空っぽで偽物のヒーロー「桐生戦兎」は、しかし万丈龍我にとっては唯一手を差し伸べてくれた本物のヒーローで、万丈の存在があったからこそ戦兎もまた愛と平和のために戦う仮面ライダーを自認することができる。その話本編でもう何度もした気がするけどでもそれがビルドなんだよな。戦争の悲劇とか科学の功罪とか宇宙的脅威との対決じゃない、この作品が繰り返し示し続けてきたものは戦×万なんだよ、どちらかの顔を曇らせつつの戦×万リフレインが『ビルド』なんだ……

 だから劇場版がブロマンス要素に満ち満ちるのも必然なのだろう。

 玄徳と一海の描き方がギャグに振れ過ぎている? 彼らに尺を割くわけにはいかないからアレでいいんだ印象に残ったろ最後にはカッコよく決めたし。トンチキ一族に個性を感じない? 奴らはそもそも戦兎と万丈を引き離すための装置なんだから個性あっちゃ駄目なんだよ軸がぶれるだろ。

 ただの舞台装置にしたって大衆がいくらなんでも無思考すぎる?  それは……まぁ、うん……

民衆の描き方

 平成2期仮面ライダー第1作の夏の劇場版、未だ語り継がれる名作であるところの『仮面ライダーW FOREVER AtoZ/運命のガイアメモリ』はTV本編が積み重ねてきた「街を守るヒーロー」という横軸の総決算だった。

 ガイアメモリを巡って醜く争った風都市民ではあるが最後には仮面ライダーに願いを託す。画面に映るのはこれまで助けてきたゲストキャラクター達。人々の、街の想いがヒーローに力を与え強敵を打ち倒す。暗に示されるのは大衆の善性である。

 さて翻ってビルドでは洗脳される前から「殲滅!」コールである。ことが終わった後も特に自己批判のようなものは見られない。っていうか多分あいつら本編で手のひら返す暇もないまま大半が消滅しそう。

 考えてみればビルドは「主に東都で活動するヒーロー」であって「東都を守るヒーロー」ではなかった。ビルド作中における市民の描き方は常に一歩引いたものであったし、だからこそ名もない無辜の民が戦禍に巻き込まれる悲惨さでもって戦争の痛みというものを効果的に演出できたと言える。その点でビルドとダブルと好対照だ。

 次作ジオウがイベント性の強い作品になることを考えれば、ダブルに対応する“最後の平成二期ライダー”はビルドだと言い切っても許されるだろう。そのビルドの劇場版で、ダブルの反転のような民衆の描き方をするのは、もし意図的にやっているのだったら称賛に値するヒーロー観の発展であるように思う。何故って助ける人間を選り好みした時点でヒーローとは言えないからだ。

 あんだけ屑だ屑だと言われる風都市民も、結局のところ『AtoZ』では“助ける価値のある”善良な人々として希釈された。

 善良な人もクソ野郎も命の価値はまったく等しい。そこに優劣をつけて許されるのは神様だけで、ヒーローは神様ではない。愛と平和のために戦うヒーローにクソ民衆が群がるのはシチュエーションとしては有りだと思う。一種の思考実験だ。大衆は乗せられやすくて細かいことはいちいち気にしないバカばかり、ともかく『Be The One』ではそういうものだとして受け入れよう。『AtoZ』の民衆が何だかんでヒーローのために祈ってくれる奴らなのとまったく同じように。

 命を張って守ってきた人たちに「仮面ライダー」の存在を否定されたとき、何を根拠にして戦いの場に立つのか。

 追い詰められた桐生戦兎にとっての根拠は、「仮面ライダー」がいなければ喪っていただろう大切な人達だった。美空や紗羽さん、ライダーの仲間たち、そしてほんとうのヒーローとしての「桐生戦兎」を形作ってくれた万丈……

 万丈を救うために戦兎は立ち上がり、モーセめいて民衆の海を割る……

 もはや“愚かな大衆”などエキストラ何百人集めようがただの書き割り背景。戦兎はもはやブラッドすら見ていない。彼の視線の向かうのは相棒だけ……

 結局戦×万ブロマンスじゃねーか。

  これはヒーロー概念へのアプローチの差もあるように思う。街に「仮面ライダー」の名を与えられたヒーローであるところのダブルなのだし、そのヒーロー性を突き詰めるプロットは当然「街」の話になるだろう。

 そして「愛と平和のために戦う者」がヒーローとしてのビルドである。愛とは? 平和とは? どちらも良き隣人との調和によってもたらされるものだ。戦兎の最も良き隣人は万丈であろう。

 やっぱりブロマンスじゃねーか。

 ビルドとダブル、やはり好対照である。

 

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似てる

 なんとデザインも似ている。(それだけでは?)

なので最も正しい顔は

 

「事実上のセックス&出産おめでとうございます!」と祝福する笑顔、で間違いないだろう。

 オラァ祝え!元気なお子さん3,218円(税込)を!

p-bandai.jp

 合体中にラブアンドピースでフィニッシュを試みるのってなんかの暗喩か? 

 そう前提すると万丈は行為中はあまり喋らなくなる奴という解釈で正しいのか?

 

 

 おれにはわからない……なにも……

 

 あと松井玲奈さんが旧民主党から出馬してそうなリアル感あってよかった。

ざっくりルパパト感想

 

・もしかして圭一郎は身一つで城壁登り切ったのだろうか。

・国際警察の権限は異世界の法律にも及ぶのだろうか。

・カメラがぐんぐん引いていって実はめっちゃ広い場所で長回しアクション撮ってたことが判明するやつもっとやって。

・新ロボの実物着ぐるみ新造せずCGだけでゴリゴリ動かすやつはやったりやらなかったりして。

・先にこっちでサプライズ合体観たからラビドラのほう別の意味でどんな顔すればいいのか分からなかった。

 

 こっちは良きライバルの存在を敵にドヤる話でしたね。 演出凝り過ぎなので単体のアクション映画として観ても面白いように思う。

 

まとめ

「ビルド」を楽しんで観てきた人なら楽しく観れるはずだと思う。おれは楽しんで観れた。

 お話そのものが飛びぬけて面白いかと言われればそうでもない。

 ジオウパートがライダー大戦すぎて困惑した。

 

 

おわり

仮面ライダーアマゾンズ THE MOVIE 最後ノ審判への難癖と良いガバ悪いガバと

 ネタバレがあります(ネタバレしかありません)

  

www.youtube.com

いま見ると内容ほぼ全部ネタバレしてんだなこの予告

  

 

 アマゾンズ劇場版に言及したい気持ちになったので記事全削除放置をキメていたブログを使うことにしました。
 全体的な評価の話はもう別の場所でしたので長々とは書きませんが、「良い部分がいくつもある」「決して悪くはなかったけど最高でもない」が僕のスタンスです。

 

ガバ概念について

 ガバの話をします。「お前のケツガバガバじゃねえかよ」が省略された言葉であります。アナルの緩さから転じてや締まりの無さやチープさを指摘をするホモビデオ弄り界隈の定型文でしたが、ホモビデオの台詞がそうとは知られず広まった現在では特に創作物に対して展開の整合性の無さやキャラの一貫性の薄さ、設定説明のすっ飛ばし等々広い意味での「雑さ」を包括的に形容する言葉として使われています。*1

 ところで、ガバは絶対悪ではありません。

 高橋悠也脚本の傑作シリーズこと仮面ライダーエグゼイドで例えるなら、プロト爆走バイクガシャットの出所なんかはいちいち説明していたらテンポが削がれただけだったでしょうし、ハイパームテキガシャットを使って調子に乗った檀黎斗*2がクロノスにガシャットを奪われるくだりは後に貴利矢さんがクロノスを裏切る激アツ展開のために必要だったと呑み込めます。

 丁寧さと引き換えにもっと重要な何かを描いた結果のガバガバは、(まあケースバイケースというか程度問題ですが)実際に描写されたものを楽しむことが出来たのなら「良いガバ」であると言っても良いでしょう。

 逆に言えばそれとそれ天秤にかけてそっち優先すんのおかしくない?とか片方の皿に何も乗って無くない?だとか、そもそも各要素の優先順位を検討する余裕すらなかったことが透けて見えるような、マイナスになっているだけの面白くないガバは「悪いガバ」と断じるしかありません。なんたって面白くないんですから。

 創作物が面白くないのは良くないことですね、当たり前です。

 前提を共有するために当たり前の話をしました。

 

悪いガバ

 上記を踏まえたうえで仮面ライダーアマゾンズ THE MOVIE 最後ノ審判をふり返ると、個人的にまず思い出すのがムクが調理されんとする一連のシーンです。

 あの如何にも品性下劣ですと言わんばかりの小金持ち連中や、草食アマゾン青年(番号を忘れてしまった)の死体をわざわざムクに見せつけるカット、あんまりにも手際が悪すぎる調理方法に何でだか居ないネオアルファ。

 そして、とてもとても分かりやすく表現された残酷さを前にして「生きたい」という感情を自覚するムク。

 どちらのガバでしょうか。

 ここがガバガバだったことで、この物語はどのような方向へ進んだか、という問いです。

 答えを出すには草食アマゾンについて考えなくてはいけないように思います。

 誰かの糧として死ぬことを肯定し、また本能的な食人衝動を持たないので、少数の生を望んだ者たちですら人を喰わないことを選ぶことができる。そんな彼ら彼女らの在り方はseason1が提示した「生きることは他の誰かの命を喰らうこと」という倫理や、あるいはseason2が辿り着いた「(ここで死ぬとしてもそれでも)最後まで生きるよ」という境地と好対照、これまでシリーズを追ってきたファンなら興味を惹かれる刺激的な設定であるように思います。

 かつて「アマゾンが人を食べちゃいけない理由がわからない」とまで断言しアマゾンの生を肯定した悠が、「食べられてもよい」と強固に死を肯定するアマゾンの村に迷い込むことは、単純な喰う/喰われるというスケールの話で終わる気がしませんでした。きっと倫理観と倫理観の狭間でぐちゃぐちゃに磨り潰された血肉の広がる鮮烈な光景を叩きつけられるのだろう、と確信したのです。これまでとは別の角度から「アマゾンズ」を問い直し、あるいは破壊し、そしてかつてのシリーズがそうであったように心震える何かを見せてくれる。そう期待せざるを得ませんでした。

 だからムクはきっと周囲がどれだれ露悪的であれ最後まで己の倫理を通すのだろうと、むしろ露悪はその前振りなのだろうと、思いました。思ったんですが……

 周りがアホにしたってそんな簡単に転ばれると……話変わっちゃうじゃん…… 

  つーかホモっぽい爺カップルに食われるのは駄目で読モの回復アイテムになるのはアリなのは何なんだろう?何が違うん?明確に一番違うのは顔じゃん?もしかしてこれルッキズムの映画だったのか。最後ノ審判って死に際の顔面偏差値ジャッジのことだったのか~~~~~~っていうのはクソつまんない冗談なんですが*3、ともかくも仮面ライダーアマゾンズ THE MOVIE 最後ノ審判は(もちろんルッキズムではなくて)素朴な感情の映画でした。食い散らかされることと身を差し出すことに家畜が差が感じるとするならばそれだからです。この映画は倫理観の対決やその結論を描くものではなく、「生きたい」という素朴な感情をわるい人間に抑圧されていたかわいそうな生き物のお話であったのでした。……いやそれでいいのかよ、って。

  誤解を恐れずに言えば*4、「誰かを喰ってでも生きたい」という在り方と「誰かの役に立てるなら死んでもいい」という在り方そのものはまったくの等価です。両者を並べて単純な上下を決めてしまえるのは映画がどうの以前に、ちょっと素朴すぎる生命賛歌を唄うひとか、ぶっ飛んだ功利主義者のどちらかで、いずれにせよ個人の信仰を表明するだけのことにしかなり得ません。

 だからこそ、絶対的に正しい答えなんざ出せないからこそ、自分の答えを背負わなければいけないからこそ、相対化された「生きたい」という感情の前に同じだけの重さの「死んでもいい」が立ちふさがり対決し打ちのめされ、しかしそれでも尚「生きたい」と吼える苛烈さをぼくはこの映画に期待しました。それは死を受け入れた草食アマゾンの養殖場という魅力的な舞台設定がこれまでの“アマゾンズ”的な価値観へのアンチテーゼとして期待に値すると感じたからであり、わざわざ小林靖子を監修に回して別の脚本家を呼んできたからにはそのくらい踏み込んだことをしてくれるだろうと期待したからであり、season1、2で積み重ねてきたものを高橋悠也なら更に発展させてくれるであろうと期待したからでした。

 season1のアマゾン達にしろ千翼にしろ“かわいそうな生き物”なんかでは決してなく、人間から見れば駆除されるべき人喰いの怪物であるけれど、だとしても生きたいと望むエゴの塊で、だからこそseason1、2は鮮烈な印象を残したのであり――つまりは「ぼくのかんがえた最高におもしろいアマゾンズ」から外れたなあという難癖なんですよねこんなのは。

 はい難癖です。「生きたい」という素朴な感情を作品の倫理観として内面化しているのがアマゾンズなのだ、と言われればぐうの音も出ませんし、なるほど確かになぁと納得する以外にありません。

 しかし敢えて雑な露悪を選んだその先にあるものが「わるい人間とかわいそうな生き物の話」であるならば、僕にはもう悪いガバと形容することしかできません。面白くないのはやっぱり良くないことですからね。

 

どんなガバ?

 

 で、それはそれとして、良いガバだったのか悪いガバだったのかちょっと判断できないっていうかなんだったら広く意見募集してみたい部分がありまして、すなわちアマゾンネオアルファこと御堂英之助さん人間かアマゾンか曖昧問題です。

 めっちゃフワッとしてましたよね。アマゾン食べてるからアマゾンっぽい臭いがしただけなのかバリバリに変身してるからバリバリにアマゾンなのか。

 ガバと言えばまぁガバなんですが、敢えて曖昧な描き方をしたからにはやはり何かしらの意図があるのでしょう。いずれの解釈をするにせよしっかりとしたエグみがあります。

 仮に御堂さんはネオアルファに変身出来るアイテムを持っているだけの人間であったとしましょう。「守りたいものを捕食せざるを得なかった悠」と「守るべき人を殺めてしまった鷹山仁」の対比構造になるかもしれません。

 しれませんが、僕たちが仁さんのことを、殺人犯であれど人である限りアマゾンから守る“人類の自由と平和の守護者”だと思い込んでいたのはまったくの勘違いだったということにもなりますし、悠が指摘するようにアマゾンへの妄執に憑かれただけの奴ということにもなるでしょう。御堂さん家畜食べてただけなんだから。

  でもそれはそれで面白いように思うんですよ。何故って小林靖子なら絶対に踏み込まないであろうラインですから。それこそ殺人犯の話だとか改めて観返すとちょっと面白いんじゃないでしょうか。あれ「殺人犯でも人間に手ぇ出すのは見逃せない…」じゃなくて「殺人犯とかどうでもいいから隙見てこの二匹殺したい…」だったかもしれないんですよね。原典の再解釈という意味でユニークなように思います。

 

  で、逆に御堂さんは後天的にアマゾンになったものだと仮定してみましょう。すると一線を越えたのは悠ひとりだけということになります。

 アルファとオメガの最後の戦いはseason1の再話なんかじゃなかったのかもしれません。薬はとっくに無くなっているだろうから今更食人を衝動することはないんだろうけれども、わざわざレジスターを外す描写を入れる辺り、悠が人類から完全に決別するための最後の儀式というか、イニシエーションみたいなものとしてのシーンだったのではないでしょうか。あの後の悠がどう生きるのかはわかりませんが、ともかくも彼と同じ地平まで逸脱した奴はこれまでもこれからも居ないわけで、だから永遠に孤独に生きるのでありましょう。そう考えるとラストシーンの寂寥感が増すような気もします。

  

 というか、まあ、もしかしたら良い意味でどっちでもいいんじゃないかなーって。どっちにしろそこそこ面白いし、だから敢えて宙ぶらりんにしてるような気もするんですよね。希望的観測が過ぎるでしょうか?

 でも僕は石田秀範や高橋悠也を、まったく考えなしにあやふやにはせんだろう、と思う程度には信頼していますし、全体的には何だかんだ面白い映画でしたから大オチも何だかんだ面白いものだったのだと解釈したい気持ちになってしまいます。創作物が面白いのは良いことですから。

 そうなんですよね、仮面ライダーアマゾンズ THE MOVIE 最後ノ審判、総合的にはそこそこ面白い映画なんです。

 面白い映画なんですよ、悪いガバがあるだけで……

  ……っていうかアマゾンズこれで終わっちゃうんですね。

 そうか……そうか…………

 

ところで話は変わるけど

 人生初4DXだったんですけどあれ本当に楽しいですね。椅子が揺れるたびに脳の報酬系が刺激されIQが下がる。たーのしー!って感じ。あんなに楽しかったのに何でねちねち貶すような文章書くことがあるんだ。

  頭部攻撃のタイミングで頭に水かかるのえぐーい!とか黒崎さんかっこいー!とかネオアルファの武器つよそー!とか無邪気に褒めるべきだったのではないか。そもそもたーのしー!って感じで何かを褒めるオタクになりたかったのにたーのしー!って感じの文章が書けなかったからまったく楽しくなくなって全部の記事消したんじゃなかったか。ふり返ってもう一度考えるべきではないのか。楽しいことについて。楽しいことについての文章を書き、書いたことを楽しいと思うべきなのだ。楽しいことを楽しいと思えることが一番楽しいのだから…

 そう、俺はコツメカワウソ、お前はジャガー、思い出せ、そして歌え…

 

 

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 たーのしーこと たーのしーと思えることが

 絶対 絶対 絶対 一番 たーのしーから

  たのしーたのしーたのしくなれるアイコトバ

 ウソ?ホント!コツメカワウソ

 

 けものフレンズ キャラクターソングアルバム Japari Cafe2

 たーのしーたーのしーたーのしー!/歌:コツメカワウソ(CV:近藤玲奈) 作詞・作曲・編曲:sasakure.UKより~

 

 

 

 劇ゾンズ、たーのしー映画でした!*5

 

おわり 

*1:僕はそういう認識でいるのでこの記事ではこの定義で使いますという表明であり辞書的な正しさを主張するものではありません。

*2:このときは新檀黎斗だったか檀黎斗神だったか

*3:あの辺り露悪にしても嵌ってなくて好きになれない気持ちの遠回しな表現です

*4:嘘ですこの言い回し使ってみたかっただけで本当はこわい

*5:オチです