昔小説を投稿したサイトがサービス終了するという知らせを受けたので、読み返せなくなる前にこっちに張り付けて(ついでにちょっとだけ誤字とかを修正して)今日の日記に代えようと思う。
時代の古今や海の東西を問わず馬鹿につける薬は存在せず、だから彼につける薬も存在しないが飲む薬はあって名前をパロキセチンと言う。5mgの錠剤がセロトニンの再取り込みを防ぎ神経に利くと医者は説明したが実感はあまりない。
彼は今日のぶんの錠剤を水道水で流し込み、三角コーナーから生ごみが溢れかえって排水溝に詰まっている流し台にマグカップを沈め、床に散らばった衣服の中からジャケットを探し出し、底の擦れたスニーカーに足を突っ込むまでの、その合間に何度も何度もスマートフォンに懇願し続けた。
「ここ数日はあいつが取っていた授業だとかゼミだとか、バイト先の奴に聞き込みを続けてた。でも新しい情報は見つからない。どこかに手がかりが残っているとすれば、やはり事が行われたあの部屋だ。あの部屋以外に在り得ない。前に探したときには何か見落としがあったんだよ、きっとそうに違いないんだ」
絞り出すような声になってしまうのは数週間まともな食事をしていないからで、“このままだと真相を知る前に餓死してしまう”と実感する程追い詰められるまで戸棚を開ける気力が湧いて来ない。
「確かにあいつが
自殺した
と結論できる状況証拠は整い過ぎている程に整っている。争った形跡はなし、窓には施錠、睡眠薬は元々不眠症の気があって病院から処方されたもの、死ぬ量の薬を無理やり飲ませるなんて現実的じゃない。……けれど、けれど、けれど、」
脳味噌の中に無茶苦茶な数の通行止めが乱立しているような感覚。内から浮き上がる思考も外から入力される刺激も全てがぐちゃぐちゃに渋滞していて辿り着くべき場所に辿り着くまで何遍も横道に逸れる。通話画面の向こう側から聞こえる声を拾うにも全神経を集中させなくてはいけない。
『――同じ説明を何度も受けましたし、その度に鍵を渡しました。そして私が立ち会って、姉さんのPCの鍵付きフォルダを無理やりこじ開けて、本棚を空にして、引き出しという引き出しをすべてひっくり返して、ポスターを剥がして、壁紙も剥がして、けれども何も見つからなくて、でもまだ“見落とし”があると言い張って、そもそも警察が毛のひとつも見逃す筈ないのに――』
だとしても。
『――それでも、探すんですよね?』
唯一明瞭に聞こえた声が、そう問うた。
「そうだ、それでも探すんだ」
曖昧な頭で、
馬鹿は答えた。
***
死体が見つかった現場は彼女の自室。第一発見者は仕事から帰ってきた彼女の父親で、ここ数週間引きこもりがちな娘と“親子の会話”をする為に扉をノックした彼が見たものは、まるで死んでいるかのように安らかな顔でベッドに横たわる自分の娘だった。本当に死んでいるのに気がつくのが遅れたことを大いに悔やんでいる父だけれど、警察によれば服薬は当日の午前だと特定されたので責任を感じる必要はない。どうやっても手遅れだった。
年上の男性があれほどに取り乱しているところを
馬鹿は人生で初めて見た。
もし、父母妹と四人暮らしの大学生であるところの彼女が自室で誰かに殺されたのだとすれば、リビングでテレビを見ていた彼女の母や、書斎で本を漁っていた彼女の妹に気づかれない方法で家に侵入し、無抵抗の彼女に大量の睡眠薬を飲ませ、何の痕跡も残さずに出て行った人間が存在することになる。
現実的ではない、かもしれない。
しかし――と馬鹿は彼女の部屋の扉に触れる。事件が起きたとき、この扉には鍵がかかっていなかったのだ。
彼女の母と妹だって別に侵入者の出入りを監視していた訳ではない。事件の起きた部屋は二階の隅で、リビングも書斎も一階。二人は映画や小説に夢中になっていたのだから、いくらでも隙はあった。
廊下の反対側に顔を向けると、突き当りに小窓。内側しか開かないようになっているが、しかし施錠はされていない。出入りは不可能ではない。小窓のすぐ傍の街路樹から登って来なかったと言い切ることは出来ない。
可能性はゼロではない。
「前に調べたときから何も変わっていませんし、誰も入っていません。私が保証します」
近い将来に義理の妹になる予定だった女はそう断言して、姉の部屋の鍵を取り出す。
馬鹿は頭を下げて受け取ろうとするが、指の触れる直前になって彼女は手を引っ込め、
「義兄さんが納得する為にしたいことなら、なるべく協力しますけれど……大丈夫なんですか? まともにご飯を食べているひとの顔をしていません」
頭ひとつ下から見上げてくる彼女の眼差しは真剣そのものだった。
「大学でも姉さんの足跡を追ってばっかりで、授業なんか全然出てないそうですね。……包み隠さずに言えば、皆が同情していたのも最初だけで、今では姉さんの死で頭がおかしくなったと思われています」
そんなものは言われなくても気づいていたし、そんなことを気にする理由はない。
「おかしくもなるさ。突然の別れ話から一週間もしないうちに“自殺”だぜ。何か裏があったに違いない。きっと何かを抱えて、おれを巻き込むまいとしたんだ。君も知っている筈だろ、この扉の鍵は開いていた。それだけじゃない」
彼が繰り返し主張し、彼女が耳にタコが出来る程に聞かされた言説。
「あるべき最後の手紙が、どこを探しても存在しないんだ。自殺であることを示す間接的な証拠はいくらでもあるのに、
遺書だけがない
。絶対におかしい。何故って、おれはあいつの為なら狂ったと思われても構わない人間だと、あいつ以外との関係なんて捨てられる人間だと、納得できるまで粘着質に探偵ごっこを続けられる人間だと、あいつは知っているからだ。だから自殺なら何か遺す筈だ。そもそも――」
精神の削りカスが声の形で喉から沸いてくる。
「あいつが
恋人に一言もなく死ぬ訳がない」
それは理屈ではなくて願望だ――と相対する彼女は思ったが、口には出さなかった。その代わりに鍵を出して、彼の手に握らせる。その指は意外なほど細く、か弱く、砂よりも小さく砕けて風に飛ばされてしまいそうで、慈しむように両手を添える。
「ありがとう」
馬鹿は数日ぶりに表情を緩めた。
その部屋と廊下の境を跨いだのは警察と彼女の父と妹を除けば
馬鹿だけで、母は扉に近づくだけで涙が零れてくるので自分の娘が最後に寝ていたベッドを確認するのはきっと当分先になる。
ベッドの周りには昔に流行った作家の本が何冊か積まれている。以前、頁の隙間に何か挟まっていないか一冊一冊調べたとき、本棚に戻すのも億劫になってそのままにしたのだ。
言うまでもないが、その日も何も見つからなかった。
彼はふと本棚に目を向けて、
「……動かしてみるか」
これだけ調べても一切尻尾を出さない犯人である。簡単に見つかる痕跡などは全て処理してしまったに違いない。死体清掃員のような手際でだ。
だからこそ――例えば街路樹の葉の破片のようなものが重い棚やベッドの下
だけ
から出てきたなら、逆説的に見える場所では証拠隠滅が行われたと主張できないだろうか、と彼は思う。
本棚の前まで歩き、腰を落として底に指をかけると、反対側に回った義妹が同じように腰を落とした。
彼は困惑顔で、
「おれがひとりで運ぶから、立ち会ってくれるだけでいいよ」
彼女は呆れて、
「死にそうな顔色してるひとが何を言ってるんですか、ほら、そっちちゃんと持ってください、せーので持ち上げますよ」
せーの、
持ち上げる。
「こっちに降ろしましょう、せーので」
せーの、
降ろす。
本棚があった場所、凹んだ床を確認すれば、果てしてゴミひとつ入り込んでいない。
「次は、あれにしましょう」
ちょっとした運動の為か、顔を火照らせつつ義妹は衣装棚を指差した。
***
窓から入った西日があらゆる家具を移動させ尽くした部屋を焼き、馬鹿と義妹の頬を焼き、二人の座ったベットを焼く。
脳裏に浮かぶのは『徒労』の二文字。
――何に納得したいのだろうか。
木目剥き出しの壁に背をつけて、彼は思う。
真犯人の存在? それとも受け入れるべき現実?
おれは何をやっているんだ?
馬鹿の様子を心配そうに窺う義妹に目を向ける。
彼女だって辛いだろうに。
ふと漏らす。
「迷惑かけてるよな」
義妹は一瞬小さく震えた。そして――
「姉さんが義兄さんを置いて死ぬ訳がない、でしょ? いつか納得できるまで、何度でも付き合ってあげるから、弱気にならないでください」
花のような笑顔をつくり、弱り切った姉の恋人を慰めながら、彼女は思う。
――本当に可愛い。
死人のような横顔は庇護欲を掻き立て、汗に濡れて額にはりついた前髪の艶やかさに感じ入る。
彼の隣で、繊細な心の苦しみを共有するこの甘い時間。胸が高鳴り、顔が火照り、この充実感を味わう為に生まれてきたのだと確信する。
いつまでもこうしていたい。
いつまでも。
いつまででも。
彼は恋人の為なら狂ったと思われても構わない人間で、恋人以外との関係なんて捨てられる人間で、納得できるまで粘着質に探偵ごっこを続けられる人間だと、姉が知っていたのと同じように妹も知っていた。
だから処分した遺書のことを――姉の自殺死体が見つかったとき、混乱する父親の横に割り込んで回収した遺書のことを想う。
すぐ燃やしたので大雑把にしか読んでいないが、家族よりも
恋人の為に長々と書き連ねていたのは如何にも姉らしかった。自分はもうすぐ病気で死ぬ、醜くなっていく姿を見せたくなかった。だから別れ話を持ち出した。あの場で説明できなくてごめん、勇気がなかった。日に日に生気の抜けていく身体と向き合う勇気もやっぱりないから、頭の働くうちにケリをつけることにする。自分のことは忘れて、新たな人生を歩んで欲しい――
とか何とか。
どうしても伝えたかったに違いない。
どうしても幸せになって欲しかったに違いない。
どうしても抗えない希死念慮と彼への愛情に折り合いを付けようとしたに違いない。
けれども。
新たな人生を歩むなんて、そんなことをされては困るのだ。姉のことを忘れられてたまるものか。もし新しい恋人でもつくられてしまったら、彼にはもうこの家に来る理由がなくなってしまうではないか。この私が、彼と並んで歩く機会がなくなってしまうではないか。
姉に奪われ永遠に失ったと思っていた時間が、姉の死のおかげで戻ってきた。もう二度と離す訳にはいかない。
彼は心が弱っている状態にある、だから辛い真実を突きつけて苦しめたくない……という説明で両親が納得してくれたのは彼が長らく“良い義理の息子候補”であってくれたからで、姉の若年性乳癌や、その進行の速さや、死への恐怖が精神を押し潰したことによる不眠症の真実は家族とごく一部の友人しか知らないし、友人たちが真実の隠蔽に協力してくれているのも、やはり彼が長らく“恋人想いの善良な青年”だったからだ。
「そう言えば、思い出したんですけど……」
彼女がそう呟くと、彼の瞳に意志の光が戻る。
「いえ、やっぱり多分、関係ありません。忘れてください」
目の色を確認した彼女は安心して勿体つけて言葉を濁し、追及してくれることを確信して口をつぐんだ。
「いや、何でもいいんだ! どんな小さいことでも!」
縋るように掴まれた両肩から、彼の体温と、においと、弱弱しい手の震えと、死ぬ寸前の獣のような緊張が伝わってくる。
死んで欲しくなかった。何故って、彼のことが好きだから。
「もう、頼れるのは君だけなんだ……」
背筋が
ぞくぞく
した。
愛おしいと思った。
抱きしめる。
その身体の細さに、ご飯をしっかり食べさせなくてはいけない。と思う。
何をどうでっち上げて、どこに連れて行こうか。
楽しみで仕方がなかった。
***
時代の古今や海の東西を問わず馬鹿につける薬は存在せず、だから治すには死ぬしかない。けれども人と人の巡り合わせというのは残酷なもので、彼にはもう馬鹿のまま生き続ける以外に道は残されていなかったし、馬鹿故にそれに気づくことはなかった。