日記:一月五日

 突然映画館に来たような気分になったのはポップコーンの袋を開けたからで、香ばしいキャラメルフレーバーが鼻をくすぐると“あの感じが”立体感を持って脳裏に蘇った。

 僕が座るPCデスクの背後の壁にはでっかい映画のポスターが飾られているに違いなく、足を下ろせば柔らかな感触のカーペットが敷き詰められているに決まっていて、建物の一階に併設されたパチンコ屋には映画よりもずっと人が入っている筈だった。グッズの売店にはパンフ以外にろくなものを置いていなくて、四つあるスクリーンがフル回転している様など想像もできず、身の程に合わないくらいに用意された座席がすべて埋まる日は永遠に来ない。そう、ここはそんじょそこらの映画館ではない。

 気づけば僕が立っていたのは――ひとりで映画を観に行くことにも慣れてきたあの夏の昼下がり、劇場版「仮面ライダーW FOREVER AtoZ/運命のガイアメモリ」が上映された、北海道のあの街の、あの映画館のあのスクリーンだった。

 ポップコーンを嗅いだ僕の時間は、2010年に、あの街に住んでいた頃に戻ったのだ。

 それなりに大きなスクリーンを見渡すと、埋まっている座席は両手で数えられる程度で、僕を除けば子供連れだけだ。仮面ライダーの劇場版ではよくある光景。今更気にすることではない。グズる子供に当たる確率が低いから快適なくらいだ。いい年して仮面ライダーを観ている奴なんて、北海道の札幌以南には僕以外に存在しないんだろう。あの時はそう思っていた。だが――

「AtoZ」が現在でも人気の高い傑作であることは説明するまでもない。だけれど僕があの映画を考えるとき、内容とは別にどうしても思い出してしまう人物がいる。

 僕はスクリーンの入り口に目を向ける。

 記憶の通り、照明が落ち予告編が始まる少し前に入ってきた若い男――白地のワイシャツに真っ赤なネクタイを締め、黒のベストを纏った男は、目元を隠す滑らかな黒地のハットを胸元に引き寄せる。帽子の下から現れたウルフカットを神経質に撫でつけながら彼は、歩きと走りの中間みたいな速度でバタバタと最前列まで移動した。どこか赤みがかった顔。真っすぐ座席だけに固定されたその視線に“誰とも目を合わさない”という強い決意が隠されているのはありありと見てとれて、つまりきっとあれは仮面ライダーダブルの主人公、左翔太郎のコスプレだった。

 完全再現を目指してはいない雑さは資金の問題か「普段着ですけど?」と逃げる道を残すためか、いずれにせよ若い何かが暴走した結果の、一夏の過ちであろうことは容易に理解できた。

「AtoZ」の事を考えるたびに彼のことを頭の片隅で思い出す。あの頃の自分は今よりも捻くれていたので「映画館で映画より目立とうとすんな」と鼻で笑ったし(服ぐらいで別に何も変わらんだろうに)、堂々と振舞わずコソコソとスクリーンの端を通るその態度に苛立ちを感じてもいた。

 今思えば――僕は彼のことを羨んでいたのかもしれない。

 好きという気持ちを表現するために分かる人には分かる服装をする、という手段を選べる彼に、目立つことが苦手な僕は敗北感を持ったのかもしれない。

 彼だって恥ずかしさがあったから、なんだかギクシャクとした早歩きをしていたのだろう。それは僕が馬鹿に出来ることではない筈だ。胸を張って自己表現できないのは僕だって同じだろうに。

 もし、あの時、彼に声をかけていれば……友達になれたのかもしれない。

 彼のことを思い出すたび、僕はそんなことを考える。

 そしてスクリーンは暗転し、何度となく観た「AtoZ」の幕が上がって、そして下りた。

 

 

 エンドロールが終わり、照明が灯るのと同時に彼は立ち上がる。ウダウダしている子供連れとは一線を画した速度で出口に向かい、僕も彼に続いて歩く。同じペースで歩き続ける。

 売店には目もくれず最短距離で帰ろうとする彼の背中を追いかけて、同じエレベーターに乗り込むと、一階のボタンを押す。僕はいま左翔太郎と一緒にエレベーターで降りているんだな、と心中で笑う。ここまでは記憶通り。

 かつて携帯電話を見るふりをして過ぎるのを待った数秒間。

 消えゆくポップコーンの香り――

 僕は――僕は言った。

「あの」

「え?」

「めっちゃ面白くなかったですか?」

 

***

 

 翌年、夏。

 劇場版「仮面ライダーオーズ WONDERFUL 将軍と21のコアメダル」が公開されたその日。二人の男が映画館の前に立っていた。

 片やエスニック風のアウターを身に纏う青年。袖が解れ気味なのは普段着の再利用だからだろうか。外ハネの強い髪型を神経質に撫でつけている。

 片やチェーンのついたジャケットを纏う、真っ赤なパンツと金のウィッグが目を引く青年。彼は恥ずかしげの欠片もない大声で言う。

「おいエージ!行くぞ!」

「待ってよ、アンク!」

 そして二人は、映画館の中へと消えていった……

 

 ……

 …………

 ………………

 

 彼らをド滑りゲボカス糞オタクと嘲笑うのは簡単です。

 でも――あの笑顔を見てごらんなさい。あれほど楽しそうにしている若者を馬鹿にせずにはいられない大人たちこそ、何か病理のようなものを抱えているとは思いませんか? ああやって無邪気に笑っていた時期が誰にだってあった筈なのです。それを思い出していただきたい。そしてもう一度考えて欲しい。

 ほんとうに大切なものは何か、ということを……

 

 

 

 

 

 

おわり