ぼくが最近午前六時半と午後四時頃に毎日排便しているということを頭の片隅に置いておいて欲しい

今週のお題「クリスマス」

 

 腸の働きが鈍いのか、出勤前の一度ですべてを出し切れなくて、労働の途中に第二波を排便する。これが最近のぼくの排便バイオリズムです。

 第一波けっこう早いな、って思うかもしれないんですけど、実はちょっと前まで始業直後の時間帯に急に腹がグルグルし出すのに困っていて、何とか排便タイミングをずらすために(かなり不本意ではあるんですが)早起きして時間のある内にひり出せるだけひり出しているわけです。それを覚えておいて欲しい。

 例えばある朝、少し早めに目が覚めてしまったあなたは、ベットの上でスマホを弄って時間を確認する。もしそのとき、画面に6:30と表示されていたのなら、ほんの僅かな時間でいい。

「anttenのやつ、今頃踏ん張ってるんだろうな」「いっぱい出ただろうかな?」「――臭いはどうかな?」

 そうやって、ぼくの排便に、思いを馳せて欲しい。

 

 あるいは、ある平日。定時が見えて来た午後。一息をついてふと見上げた時計の針が四時を指していたなら。あなたの職場で想像してみて欲しい。

「anttenのやつ、出せたかな」「紙に困ってないかな?」「――最悪指で擦っているかな」

 ちょっとでもいい、ぼくの排便について、考えて欲しい。

 

 もしくは、あなたに子供が産まれて、まだまだ手のかかる赤ん坊のおしめを替えるとき、ふと思い出して欲しい。

「anttenのやつ、今でも午前六時半と午後四時に排便をしているのかな」「固形の便も出るようになったかな?」「――肛門は切れていないかな?」

 いつまでも、ぼくの排便を、記憶の片隅に置き続けて欲しい。

 

 多くは望まない

 たった五秒でもいい

 五秒あれば何が出来る?

 例えば、誰かの涙を拭うことが出来るだろう

 その五秒を、ぼくの排便にくれないか?

  油っぽくて水に浮く糞便のためにくれないか?

 

 十人が排便を想えば、五十秒が集まる

 五十秒あれば何が出来るか?

 誰かの震える肩を抱きしめて、落ち着かせることが出来るだろう

 その五十秒を、ぼくの排便にくれないか?

 肛門からぽとぽと垂れる腸液のためにくれないか?

 

 百人が排便を想えば、五百秒が集まる

 五百秒あれば何が出来るか?

 涙の理由を聞きだして、寄り添うことが出来るだろう

 その五百秒を、ぼくの排便にくれないか?

 ほぼ液体の中に混ざるぶちぶちとしたゼリーのような糞便が、

 肛門を抜けるとき背筋に走る悪寒のためにくれないか?

 

 数万人が排便を想えば、数万秒も集まるから、

 あいつを泣かせたやつの元まで走って、こう言ってやることが出来るだろう

「おい、兄弟。どうしてあんなことをしたんだ、何を焦っているんだ?」って

 そうしたら、やつも泣き出して、不安を語るだろう

 そして、やつの話も聞いてやれば、拗れてしまった二人の仲を取り持てるだろう

 世界に小さな平和が戻るだろう

  その数万秒を、ぼくの排便にくれないか?

 ビビットな色に染まったトイレットペーパーと、

 尻を拭う指に伝わる粘土のような触感のためにくれないか?

 

 地球には百億の人々がいる

 こう思わないかい?

 百億人の五秒がひとつになったなら、この世に解決できない問題なんてひとつもない、って

 その五秒を、ぼくの排便のために使って欲しい

 ぼくの排便に思いを馳せて欲しい

 ぼくの排便のことを忘れないで欲しい

 理由なんて要らない

 愛に理由はないのと、同じように

 

 

f:id:antten:20191224023848p:plain

 

財布ってどこで買うの

 財布がぶっ壊れた。

 文化資本が低いのでお金を入れるものにお金をかける意味が分からないままイイ歳になってしまった僕の財布は中学生の頃からずっと使い古していたもので、物持ちが良いのかと言えばまったくそんなことはなく部分部分をテープで適当に補修して無理くりに延命させていた。

 中に収まっているのはお金よりも専ら、作ったはいいが使わないポイントカードであるとかポイントカードであるとかポイントカードで、カード入れにポイントカードを詰め詰めに詰めた結果布の端が遂に千切れてしまったのだった。

 

f:id:antten:20191204001754j:plain

 

 まあ別にこれだってテープで補強して使えないでもないけれど、僕のことだから外で財布を取り出したときに剥がれたテープの隙間からカードをぼろっと落としてそのまま失くしてしまいかねない。落とすのが使わないポイントカードならまだマシだが、免許証やクレジットカードとなると笑えない。

 いい加減に新調すべきなのだろう……とまで思い至ってふと考える。財布ってどこで買う種類のやつなの。教えて貰ったこと無いぞ。

 社会をちゃんとやれている成人はきっと財布もちゃんとしていて、もちろん財布以外の身に着ける小物もちゃんとしていて、ちゃんとした小物を入手出来ているからにはちゃんとした小物が売っている場所も恐らく存在している。

 どこなんだろう。

 ドンキとかではないよな。ドンキとかに売ってるのはちゃんとしてないやつ。

 例えばちゃんとした服とかちゃんとした靴はちゃんとした服屋とかちゃんとした靴屋に売っているんだと思う。“思う”という言い方をするのは入ったことはないけれど存在は認知しているからで、ちゃんとした財布屋となると存在も知らない。

 いやあるんだろう多分。僕が知らないだけで。パーカージーンズで入店すると店員から嘲笑される財布専門店が日本のどこかにある。

 ちゃんとした財布にしろ服にしろ靴にしろ「ちゃんとした大人村」のコードなのだから「ちゃんとしてない大人村」の住人である僕が入手方法をよく知らないのも道理ではあるけれども、ほんとうは複数の村を好きに行ったり来たりできるのがいちばん良い筈で、ちゃんとした小物の買い方を知って損はない、たぶん。

 個人的なことを言うと、僕は「知らない」ことで相手を矮小化しマウントを取るために目と耳を塞ぎ続けるタイプのファイトスタイルをスノッブ的文化に対して取ってきたフシがある。ズルいのでそろそろ止めたい。でもブランド知識でマウント取るような人間になったら首を捩じ切って欲しいし、ちょっと知識が増えただけでそうなっちゃう自分が簡単に想像出来るのでどうしたものだろうか。そもそもを言えば村人をやりたくない。樽の中に住んでタコにあたって死にたい。*1

  いや……なんとなく予想はつくんだよ、たぶんちゃんとした財布はプッチとかエルメェスとかエンポリオみたいな名前のブランド店に売っていてそれは銀座とかにある。

  銀座には電車に乗ると行けて、そこは日本でも特にちゃんとしている土地である東京の中でも特にちゃんとしている街なので歩く人々も例外なくちゃんとしており、ちゃんとしていない人間が足を踏み入れると爪先から蒸発して死ぬのではないかと不安になる程ちゃんとしている。だが恐れることはない。もしあなたがちゃんとしていないとしても、ちゃんとした小物を買う為に銀座の街に立ったとして死ぬことはない。

 何故ならば「銀座でちゃんとした物を買おう」と考えた時点で、あなたはちゃんとしようとする意志を持った者だからだ。銀座はあなたを受け入れる。銀座はちゃんとしようする精神を拒まない。故に銀座は日本最大のちゃんとしている街なのである。

 ちゃんとしたいか。

 どうだろう。

 別にだな。

 だってお金を入れるものにお金をかける意味が分からないし……うーん文化資本が低い。

 

f:id:antten:20191204004014j:plain

 

 ヨシ!

 

 

 そしてこれは作ったはいいが使わないポイントカードピラミッド。

f:id:antten:20191204005336j:plain

 

 

 

おわり

*1:これはギリシア哲学知識マウントで、実際はエアコンのある家に住んでなるべく長生きしたい

日本には死季がある

今週のお題「紅葉」

 

 肌寒い日々が続いている。これからドドドドドドドドドと雪崩のように気温が下がり本格的な冬となるようだ。ある者は凍死し、ある者は風邪を拗らせ死に、またある者は滑って転んで死ぬだろう。『クソ寒い時期』と『クソ暑い時期』と『移行期間』があるのみの現代日本において四季は存在しないが死季は間違いなく存在し、もちろん生き物は寒さでも暑さでもそれ以外でも死ぬので一年中が死季である。一年中が死季であるからには世界に一年中死が満ち満ちている筈で、なるほど外を歩いてみれば道の縁石沿いには街路樹の赤い葉がじっとり湿り誰に顧みられることなく吹き溜まっている。あれは紅葉の死骸で違いないだろう。紅葉狩りの季節とは紅葉が狩られ殺される季節のことである。手を下すのは人間であったり人間以外であったりする。今回に関して言えば下手人は雨の冷たさだったが、この寒さが殺すのは今この瞬間目に見ているものだけでもない筈で、例えばふたつ前の季節にあれほど対決を繰り返したゴキブリの長い不在は不在そのものが連中の死を物語っている。陸橋の下に長らく放置され部品のガチガチに錆びた自転車が示すのは移動能力の死で、僕の横を通り抜けるスーツの後ろ姿は(おそらくは)今日ぶんの労働の死、ビルの窓から漏れる明かりは定時帰宅の死だ。スーパーの弁当に貼られた値引きシールは定価の死であり、店内にかかるローカルラジオは静寂の死であり、帰り道に響く足音もやはり静寂の死で、どこか遠くから聞こえる車の走行音も当然静寂の死だ。生きることは死の死だから、冷たい新鮮な空気を肺に取り入れることはもちろん酸欠の死である。頭の中に浮かんだ思いつきを言葉にして見える場所に残すのは墓石を彫るのと似たようなことで、何故って吐き出して満足してしまった思考はそこで終わってしまうので思いつきを書き記すことは思いつきを殺すことで間違いない。せめて立派な戒名をしたためてあげるべきだろう、と身体に熱を入れるためにプルタブを開ければそれは素面の僕の死で、アルコール切れと鈍い怠惰は酩酊した僕の死だ。目を覚ますのは昨日の死で瞼を落とすのは今日の死である。覚醒は今日の誕生と同じことかもしれないけれど、閉じた目が必ずしも開くとは限らないように死と生が表裏一体であるとはとてもとても言えず、地球があらゆる生でいっぱいいっぱいになっていないところを見れば生の数を死の数がいくらか上回っているようだ。繰り返すに我々の世界は死に満ち満ちている。

 

f:id:antten:20191126191310j:plain

 

これは249円の死。

おわり