「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」感想:面白い映画を観たなぁと言いながら難しい顔をする、あるいは

 あるいはエヴァにかこつけた自分語り。

 

 ネタバレなし三行

・旧世紀版を観たことがある人は、TVシリーズ最終二話と旧劇場版を復習してから映画館に行く方がいい。

・旧世紀版を観たことがないなら、今から観るのもいいが、タイムマシンを開発して十代の頃の自分に「エヴァ全部観ろ」と説得しに行くのが一番いい。

・僕がエヴァの話をする上でいちばん大事なのが、僕は十代のときに観たということです。

 

 ネタバレなしで映画の概要を説明する三行か?これは?

 

 

 エヴァンゲリオンの話をするときには自分語りを混ぜ込むのがマナーとされているので僕とエヴァの初接触について話すと――これは僕に悪影響しか与えていない偶然なのだけれど――十四歳のときだった。名前しか知らなかったこのアニメに興味を持ったのは「序」の製作が発表されてからだ。

 でもいきなり「序」から観るべきではないと思った。何故ってリメイク元を観ないままリメイク版を観るのは“““低俗”””だと(そのときは)思っていたからで、でも当然ソフトは持っていなかったし買う金もない。

 これは本当の自分の体験を書き記すためと懺悔のために濁さず明言するのだが、そのときの僕はYouTubeに丸上げされたものを違法視聴していた。親のパソコンで。親が帰ってくるまでの時間を妹と奪い合いながら。あの頃の動画サイトはこの世のすべてがそこに置いてある大海賊時代だったのでTVシリーズが全話上がっていたしシト新生もEOEもあった。ので観た。(ごめんなさい)(マジでごめんなさい)(今は払うお金を払ってるから許して……)

 

 僕は新世紀エヴァンゲリオンキリスト教的なモチーフを扱ったSFとして捉え、神様の広大で抽象的な領域、そして生命の内的でやはり抽象的な領域を描こうとしたアニメなのだと解釈した。

 キャラがどうのみたいな話よりも設定と演出意図を語るのが“硬派”で“高尚”だと(そのときは)金も払ってねぇくせに思っていて、ネットで読んだ「ガフの部屋とは~」「デストルドーとは~」「ATフィールドの意味とは~」「あの世界の地球の地軸は~」みたいなテキストを教科書よりも暗記していた。エヴァンゲリオンというコンテンツの周囲は暗記したくなるテキストに満ち満ちていたのだ。

 その大半は今では普段忘れているのだけれど、他のコンテンツに触れているときにブワっと蘇ってくるので、これが知識を血肉にするということなのだなぁ、としみじみ思う。もっと役に立つものを血肉にするべきではあったのは違いない。

 キャラの精神分析も悪くはないけれどオッサン達ちょっと感情移入し過ぎじゃないwもっと客観的にアニメを見ようよwくらいの気持ちでいたのは、僕がリアルタイムでシンジの背中を追いかける体験をした世代ではないのがひとつと、シンジ⇔ゲンドウの関係性が自分⇔実父の関係性を代入できる種類の不仲ではなかったのが大きい理由だったと自己分析している。

 つまるところシンジくんに感情移入できなかったし、その上キャラはストーリーの駒であるべきという思想が強かった。実際エヴァの登場人物は説明的なセリフで考察の種をばら撒く仕事に従事してくれていて、この読み方が正しいのだと当時は強く確信していた。

 他者と傷つけ合いボロボロになった上で、それでも他者が存在していることを望む。世紀末の熱狂が過ぎてから観るEOEは、陰惨で憂鬱で耽美で支離滅裂で、でも筋が通っているように読める独自研究の出揃った、“高尚”なアニメーションだった。EOEのことを考えていれば高尚な気分になれた。僕はそういうふうにエヴァに耽っていた。

 ちなみに「序」は地元の映画館で上映しなかったので観れなかった。これが非札幌圏の北海道なんだよな。

 

 初めてエヴァ(というかオタクコンテンツ)にお金を使ったのは中学の三年生になってからで、僕が通っていた学校はバイト禁止だったのだけれど、学費のためという名目があれば特例的に新聞配達だけは就けた。

 月に3万も稼げてなかった記憶がある。こんなのは普通に考えて学費の足しにもならないし、小遣いもお年玉以外貰ってなかったのだから子供が使いたいように使うのがいちばん正しい。当時はまだ11巻までしか出ていなかった漫画版を買った。使途の数が十三で揃っているのが聖書を扱った物語として正しくて好きだったけど、カヲルくんは僕が考えるような「駒」として動いてくれなかった。今思えばこれが初の解釈違いってやつだったのではないだろうか。

 PSPを買って「エヴァ2」もある程度やりこんだが、宗教的モチーフが単なるフレーバーと堕し、整合性のあるSFになった設定群はあまり魅力的には感じられなかった。神様が整合性のある存在な訳はないし……ロマンのベールを剥ぎ取られた感じ。

「序」のDVDも買ったけど、基本的にラミエル戦までの映像が綺麗になっただけなので、それほど熱狂は出来なかった。

 多くの人がそうであるように、再び熱が付いたのは「破」を映画館で観てからだった。

 

 本州から数カ月遅れて地元の小劇場で公開された「破」は、TVシリーズとの小さな違いがリフレインしながら凄まじく大きな波となり、原典を破壊し、結果としてまた別の大きな悲劇を生んでしまったが、悲劇を呑み込む熱量を持ったまったく新しいエヴァだった。

 旧作とは比べ物にならないくらい色鮮やかになったヴィジュアルからは人間の埒外に存在する深遠な神様の法則をひしひしと感じたし、旧作との違いが「何故違うのか?」と考えるのは、かつてEOEについて語っていた“高尚”な人々と同じステージに自分も立てるような気すらした。

 周りでエヴァの話をする人が増えたのもこの頃だったと記憶している。けれど皆「レイとアスカどっちが好き?」みたいな話しかしなかったんだよな。当時の僕にインタビューすれば“硬派”なオレが同じレベルに立ってやれないのは当然。第8使途のギミックがサハクィエルの倒され方を学習して増えたように見えるのを根拠にしたループ説も出てこない連中と話すことはない。みたいなことをのたまうと思う。エヴァはキャラコンテンツじゃねぇんだよ、というような意味合いの怒りを「コンテンツ」の意味を知る前から腹の底で渦巻かせていた。

  じゃあどこで誰と語ったのかと言うとやっぱりインターネットで、今振り返って改めて思うに、僕にとってエヴァンゲリオンとはインターネットで考察を読みインターネットで他人と意見を交わすものだった。

 インターネットの人が元ネタだって言うから「幼年期の終わり」は読んだけど「人類補完機構」シリーズは難しくて通読できず図書館から延滞を怒られ、エリスンは読んでも「?」で、キルケゴールなんか手も出せない。

 その程度の知性しか持っていない癖に「おれはコンテンツについて正しい読解ができる」という自意識だけが強く、文化資本も自己客観性も経済力も弱い少年が誰でもタダで入り込めるインターネットに耽溺してドブ川に貴重な時間を捨てていく話は脱線が過ぎるので筆を省くとして……

 

 ドブ期にインターネットで「セカイ系」という枠組みを教えられてから観た「Q」は、自意識の葛藤がそのまま世界の命運に直結する類型の物語(つまりはセカイ系)をガキと断じていたと解釈したので、「シンエヴァ」はその先の物語を見せてくれるのだろうと嬉しくなった。

 そもそもあの映画って元々完結編とセットで上映される予定だったことを皆忘れているんだ、前後編の前編なんだから単体で評価するべきではない、分かってないやつばっかだけれど俺だけはQの意図、理解してるぜ……と腕組して頷いていた。すぐに「先」を目撃できるのだろう、と。

 怒ってる人たちには「ヤレヤレこれだから“浅い”人たちは」くらいの気持ちでいた。(こいつ殴り殺した方がいいな)

(余談だが天気の子セカイ系終わらせた説がいまいち気に食わなかったのって今考えれば

「それはシンエヴァがやることなんですけど~~~~!?」って意識が漠然と残ってたからなのかもしれない。エヴァの呪いだ。)

 まあ結局、延期延期延期で単体として評価するしかなくなったのだけれども。

 それでも神様の怒りに触れて俗悪な人間の生活が洗い流されたかのような、真っ赤で静謐な世界は好きだったし、使途の奇形みたいな敵は神様の仕事を台無しにしたような業の深さを感じて好きだったし、キャラの話をするのは低俗、みたいな思想の呪いはこの頃にはすっかり解けていたのでTVシリーズと比べてずっと普通に優しくなったカヲルくんや、思い入れがないので気軽にエロい目で見れる真希波・マリ・イラストリアスのことも好きだった。

 でもこれって結局フレーバー部分の「好き」だったので、本当はシンエヴァが公開され、僕が観に行くその日まで、Qを好きとも嫌いとも判断するべきじゃなかったのだろう。そしてその日が来た。その日が来たのだ。

(前置きなっげ~~~~~~~~!)

 

 

 

 傷つけ合いながらも他者が存在する世界を選ぶ、という結論に至ったのがEOEならば、その先にあるシンエヴァ――というか新劇場版で描かれるべきは、傷つきながら他者を肯定することそれそのものだ。

 The End of Evangelionはシンジがもう一度、祈りのように他者を求める決意をした直後に幕が下り、その先に待ち構えている――いなくてはいけない、他人によって齎される「痛み」「嫌さ」「辛さ」との共存は描かれなった(「気持ち悪い」については本来の脚本の台詞ではないので「あんたなんかに殺されるのはまっぴらよ」=ツンデレ一流の「わたしは他者としてここにいるよ」宣言と読み替える)

 それを踏まえた上でシンエヴァに目をやると、今作のテーマを強く示唆するのが劇中で繰り返される「辛いのはお前だけじゃない」だ。

 現代インターネットではあまり好かれないタイプの言説。何で嫌われるかって、この言葉には「自分の辛さ」を相対化して矮小化する力がある。

 他人の傷と向き合うということは、自分の傷を絶対化しないことであり、世界で唯一の傷だと思わないことだ。他人を認めながら生きるのは、自分を相対化して矮小化するのと言い換えれば本質は同じ。それも憎むべき何者かによって上から勝手に相対化されるのではない。自分から、自分じゃない人のためにやるのだ。

 ぶっちゃけ楽しいことじゃないよな。嫌な気持ちになる方が多い。

 だけれども、EOEにおいてシンジはそれを選択した。

 別にループ説に拘ってるんじゃない。それでもシンジは「EOEを経たエヴァンゲリオン」という物語の主人公なのだ。 

 

 善良な人々との素朴で平和な生活で心が浄化されていく農業パート、「しょうもねぇ~~」って気持ちが全くなかったかと言えば嘘になる。令和の時代に自然との触れあいで純粋な精神を涵養するんかい。ああいうのって自分から積極的に混ざれる人じゃないと何も得られないじゃん。だいたいあの赤く染まった静謐な世界に人間が生き残って俗っぽい生活してるだなんてロマンに反する。

 あとミサトさんの本心のくだりダルすぎるよな。ガキが居るからなんなんだよそれは別の話だし、百歩譲っても今更おせぇよ適切な説明を適切なタイミングでするべきだったのは何も変わらんだろ。それとピンク髪。お前のことなんか知らんのだからお前の両親なんてもっと知らんわ。

 

 でも他人と生きることってこの手のしょうもなさの中を泳ぐことだもんな。この手のダルさを受け止めることだもんな。そしてそれは既に選ばれていたんだ。選択はまっとうしないといけない。ケジメをつけなきゃ。

 Qは傷つけられる話だったので、必然的にシンエヴァは傷ついた上で他者を力強く肯定する物語だ。しょうもなさを泳ぐ話だ。ダルさを受け止める話だ。

「傷つかない強さを得る話」ではないから、シンジは仮称アヤナミの死に直面して泣き腫らしてから再起する。いったん傷つかなくてはいけない。それから立ち上がらなければいけない。そう決められている。これは彼の義務。

 

 テレビシリーズの最終二話もEOEも復習したのに今まで気づけなかったんだけど、あの自己啓発セミナーにゲンドウは参加してなかったんだよな。それっぽいのは初号機にぱっくんちょされる場面だけ。

 だから今作でセミナーを受ける側に回るのは必然だったのだろう。旧作では拾えなかった声。そして他者の声に耳を傾け、他者の存在を肯定してあげるのも当然、他者を望んだシンジくんの義務だから、終盤の展開も至るべくして至ったものだ。

 

 TV最終二話やEOEにおいて人類補完計画が発動した後の狂気的なヴィジュアルをある種の馬鹿馬鹿しさを孕んだものに作り替え、躁的ではあっても鬱々とはしていない世界で、シンジが他人の心と向き合って、直接肯定し、いるべき場所へ送り出す。

 皆が具体的にどこに行くかはそれほど重要ではなく、だから僕らには明確には知らされない。あらゆる人々にはその人だけの地に足をつけた生活があって、それは自分の生活とは別個に存在し、でも等しく尊重されるべきものだから。いちいちすべてを暴くものではない。「あんたが全部私の物にならないなら、私なにも要らない」の対極。

 間違いなくこれはEOEの先であり、狭い自意識の範囲だけを「セカイ」と言い切ってしまう稚気の先であり、エヴァンゲリオンが拓いたひとつのジャンルのお終いだ。

  セカイ系の話はこれでお終いです。めでたしめでたし。

 

 マリの正体がふんわりとしか分からないままだったのもそれでいい。彼女はシンジの知らないところで――そして旧世紀版を観た人も知らないところで人生を歩んできた他人の中の他人で、でも他人と並んで歩くのも悪いことだけじゃないよ、っていう祈りの塊みたいな女の子だ。

 そう考えれば最後にシンジの隣に並んでいたのがマリだったのも納得できる。他人がいるからこそ触れあい喜び合えるのだ、こんなふうに!と謳う物語の終幕として正しい配役じゃないか?

 

 

 でもCV:神木隆之介だけはよくわかんなかった。ねぇあれってシンジの来来来世ってことだったらめっちゃウケないか?おれはひとりで笑ってるが……

 あるいはエヴァなんか引きずってないで新海誠作品とかを観ろってことなのかな。それもそれでウケるか。

 

 大量に出てくるカタカナ固有名詞はそういうマクガフィンみたいなもんだから「分かんない」の箱には入れなくていいと思う。分かる必要がないので。

 分かった気になるべきは作中における虚構と現実の関係性で、あのラストシーンは多くの人が言うように「現実に帰れ」の語り直しだったのだろうか?

 僕はそうは思わない。シン・エヴァンゲリオン劇場版:||は「EOEを経たエヴァンゲリオン」の主人公であるシンジくんがその義務を果たす、シンジくんの物語だったからだ。

 だからあれは、「シンジは現実を選んだよ」なのだと思う。

 物語が言うのは「現実に帰れ」ではない。

「それで、きみはどうする?」だ。

 

 ここに来て初めてシンジくんにどっぷり感情移入できる可能性が見えてくる。でもそれってちょっと困る。

 僕は中学生の頃とかドブ期から劇的に精神性が変わったのかって言えば別にそうでもないし、実際まだ殴り殺した方がいいバカのままではあるけれど、昔の僕が鼻で笑うような“社会経験”ってやつも積んでしまって、精神が鈍化して、感受性が摩耗して、純粋さを失って、ひとに言わせれば社会人として成長してしまった。

「EOEの選択の先のお話として面白かったよ」って感想とは別に、シンエヴァの他者思想そのものを自分のものみたいに肯定できれば、「成長してしまった自分」も素直に肯定できるのかもしれない。シンジくんみたいに現実を選べるようになるのかもね。

 本当にそれでいいのかよ“俺はお前らとは違う”に縋り付いて生きてたエモエモテーィンの十数年後がよ。それで。なあ。

 どうなんだろうね。

 僕は自分についての態度は保留したうえでシンジくんのお話として全肯定をします。

「みんな辛いよ」を馬鹿にしてる場合じゃないんだろうな。

 

 僕は面白い映画を観たなぁと言いながら難しい顔をする。するしかない。

 

 

 

 

 

 

おわり