オウム

 通勤の途中でふと空を見上げると、でっぷり太ったオウムが電線に留まっていた。南国めいてお目出度いエメラルドグリーンの羽毛をしみったれた日本人どもに見せつけるその佇まいは、労奴の身からすれば狭い鳥籠を蹴破り世界に羽ばたく自由を謳歌しているようにも見えたし、人間の庇護の外で生きる術を知らないペットが行く場所もなく途方に暮れているようにも見えた。

 そう言えば最近Fワードを連呼するヨウムが話題になった。(ヨウムとオウムって何が違うの?)

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 罵倒語が大量に飛び交う環境で育ったので罵倒語を大量に覚えたということなのだろう。僕が真下を通り過ぎる間オウムは何も言わなかった。オウムもヨウムもきっと似たようなものだし、類推するにこいつが何も言わないのは何も聞かずに育ったからに違いない。汚い言葉をかけられながら飼育されるのと無言で飼育されるのはどちらが良いんだろうな。鳥には許される言葉とそうでない言葉の区別なんて付かないだろうが、発話動作に含まれる悪意とか敵意は(危険なので逃げるか、危険ではないか、本能的に反応するだけで人間が想像するような“自我”を持つ訳ではないだろうけれど)わかる筈で、当然危険を感じ続ければストレスになるだろうから、やはり汚い言葉を言われて育つよりかは黙って世話される方がマシのように思う。

 別に優しい言葉をかける必要はない。優しい言葉とそうでない言葉の区別も当然できないだろうし、万が一区別できてしまったらそちらの方が面倒くさい。

「水に優しい言葉をかけると綺麗な結晶ができる」みたいなトンデモが学校教育の場で真面目に扱われた事が昔あったらしいけど、それを聞くたび思ったのが、ある言葉を「優しい」と判断するのは文脈とか聞き手の精神状態次第だということで、例えばめちゃくちゃ性格のねじ曲がった水は褒め言葉の裏をいちいち読もうとするんじゃないだろうか。

 

「ありがとう!」定型文だから言ってるだけで感謝はしてない。

「透き通っていて綺麗」褒められる中身がない。

「いてくれて助かる」ギリギリの人数で回してるから。

「こんな伸びると思わなかったよ」秒で辞めると思ってたわ。

「のんびりでいいよ」しゃしゃるな。

「○○さんに振るくらいなら君の方がいい」消去法で仕事を振っていることからも分かるようにお前は周りに有能がいないからギリギリ存在を許されてるだけで何かヘマをすれば当然○○と同じ扱いになるし、ここで○○をdisっているのと同じようにお前もまた居ない場所で馬鹿にされている。

「(中間管理職)に君をこっちに回して貰うように頼んだから」奴隷として使い潰してやるからな。

 うーんやっぱり無言の方がいいな。

 

 上司にオウムの話をすると、曰わく僕が目撃した辺りでは何年か前からオウムだかセイヨウインコだかの群れが野生化しているそうで、そのうちの一羽なのではないかと言う。

 あいつも社会をやっていたのだなぁ。おれにはできない。オウムにできることができない人間、それがおれ。

 

 

 

 

 

 

おわり